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社会と障害

「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」

北条民雄『いのちの初夜』

癩病になり、隔離施設で暮らした北条民雄の小説『いのちの初夜』は、病によって社会から拒絶された人自身の視点から描かれていて、統合失調症という社会的な死を意味する障害を持つ私の心に突き刺さる。

重度障害を持つ人の多くは語る言葉を持たず、自らの意に反して時に他害するような疾患を持つ人は、忌まれ、一般社会から離れたところでひっそりと暮らしている。そのような人々を無償で、または高くはない給料でお世話している介護者がいる。

やまゆり園の殺傷事件や、滝山病院の虐待は、そのような人々の間で起きた。


やまゆり園の事件が起きた時、私は調子を崩して入院していた。相模原市にも縁があり、この事件が頭から離れなくなった。

植松聖死刑囚は、やまゆり園で介護士として働いており、障害者は可愛いと話していたそうだが、ある時から障害者は生きていても仕方が無いと考えるようになったようだ。背景には風呂で入居者の命を助けた時に感謝してもらえなかった事などもあるのだろう。

滝山病院のドキュメンタリー番組は、精神科病院で医療者が立場の弱い患者を虐待し、死亡退院が続発しているという内容だった。現在も公然と差別されている精神障害者が被害を受けたので、その後の反応は鈍い。

当事者ではない人々は、優生思想だ、とか、犯人の思想は理解できない、人権侵害だ、などとお茶を濁して忘れていく。

その一方で、統合失調症の人とは関わりたくない、社会では一緒に暮らせない、という声は社会にもネットにも溢れている。

統合失調症には他害のイメージが強いから仕方ないのかもしれないけど、癩病を隔離した時代から何も変わっていないのではないかと思ってしまう。


皆、関わりたくないけど悪い人と思われるのも嫌だから建前を言っているだけなのかもしれない。


私は多分優生思想を内面化していたから、自分が障害者であることを心から認めた時、それまでの自分自身のイメージがガラガラと崩れ去り、今少しずつ自分の土台を築き直している途中だ。私の中には似たような障害を持つ人への否定の気持ちもまだあるし、障害が遺伝する可能性を知りながら子どもを持つ人への嫌悪もある。

人は社会的動物なのだ。その社会から疎外されてしまうのが、この統合失調症という病の特徴でもある。だから多くの寛解した当事者は、病を隠すのだ。


声高に障害者の人権を語っても、力なく、愛してくれる人がいなければ、その人の安全は担保されないのだ。


社会に建前すらなくなったら終わりなのかもしれないけれど、どのメディアにもまだ、私が求める真実の言葉は見つからない。


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