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人間の耳、動物の耳──続・音楽を考える

 以前書いた記事「音楽を考える──デカルトの音楽理論」の中で、デカルトと「倍音」について書いた。

 それ以来あらためて、なんで「可聴域を超えた倍音」なんてものを気にかけなければならないのかと考える日々を過ごしていた。


 そこで問われている「可聴域」という概念は、当然のことながら「人間の可聴域」を指している。人間の知覚能力には限界があり、そこに収まらない領域で起こっている現象については、原理上ひとによって見解が様々に分かれてしまうこともあり、「形而上学」という言葉もある通り、考えることが非常に難しい。


 カントは、人間は人間が感じる範囲でしか世界を認識できず、それを超えた「物自体」についてはほとんど何も言えない、と主張したが、「可聴域を超えた倍音」もその領域に近い存在であると言える。ちなみに、そんなカントが音楽をあまり好まなかったことも、人間と音楽の関係についての示唆を含んだエピソードであるように思う。


 さて、可聴域を超えた倍音の存在は、どのようにしてわれわれ人間の前に姿をあらわすのか。デカルトは数学的に、ラモーは物理的にその存在に接近したが、ぼくはつい先日、散歩している途中でその存在に出くわした。


 散歩していると、犬を連れたひととすれ違う。ぼくは動物が好きだ。ペットは飼っていないけれど、その分ペットを飼っているひとの話を聞くことが楽しい。


 最近は地震が多いせいか、緊急地震速報や飼い主が感じるよりも先に、ペットが何かの異常を察知して動き回ったり吠えたりするという話をよく耳にする。動物は人間とは異なる知覚を備えているわけで、わずかな揺れや軋みのようなものを感じているのだろうと推測される。


 そういった話をいくつか聞いているうちに、動物たちにはぼくたち人間が耳を傾けている音楽がどう聴こえているのだろう? と不思議に思った。コウモリは、人間には決して聴こえない高い周波数の超音波を知覚することができるらしいし、人間にも若い頃にしか聴こえないモスキート音がある。みんながみんな同じ音を聴いているわけではないのだ。


 そう考えてみると「可聴域を超えた倍音」のことが聴こえている動物だって存在しているだろうことが理解できる。人間にとっての「聴こえない音」について思いを巡らせることは、動物たちが「聴いている音」について考えることに直結している。ひいては「他者」について考えることになり、聴こえないからといって「存在しない(=世界に影響を与えない)」わけではなく、「聴こえるものの美しさ」に至るまでに「聴こえない(=動物には聴こえている)」部分への配慮を経由するという手順を、人間は音楽を作る際にも(無意識において)行っているのだ。


 人間にとっていくら心地よい音だったとしても、人間と同じ世界で過ごしている動物たちにとって耳障りだったとすれば元も子もない。もし、コンサート会場に犬を連れていったとすれば、吠えたり走ったりしてまぁ大変だとは思うけれども、みんなが無意識に「コンサート会場にペットを連れていってはいけない」と考えているのだとすると、それは不自由な音楽だと言わざるをえない。


 ある日、パンクバンドをやっている友達のライブを見に行った。狭い空間に煙草の匂いが充満しているような小さなライブハウスに、おそらく3歳か4歳ぐらいの小さな子供を連れた女性が観客としてやってきた。かなり激しいリズムのパンク音楽だったので、そんな小さな子供が楽しめるのだろうかと思わず目を見張ってしまったが、それは要らぬ心配だったようで、演奏が始まるやいなや、その子はビートに合わせて楽しそうに踊り始めた。周りの観客たちもその子に優しい眼差しを向けていた。「やっぱり音楽はこうでなくっちゃ」と、その光景を見たときのぼくは思ったものだ。まあ、煙草の匂いには思わず鼻をつまんだだろうけども。

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