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ビューティフル・ドリーマー読解2


 以前書いた記事『ビューティフル・ドリーマー読解』

の中で、この作品には未だ汲み尽くされない解釈可能性が含まれていると記した。今回はその一端を「哲学的ゾンビ」の議論と繋げて解釈してみようと思う。


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 ぼくは一度、『哲学的ゾンビとゲーム画面の共有』

という記事の中で「哲学的ゾンビ」について考察している。その中では「ゲーム画面の共有」を通じた「哲学的ゾンビ」の回避方法の模索が語られる。


 「哲学的ゾンビ」は主に〈他人の自我(他我)はあるのか、ないのか〉という疑問を中心にして組み上げられている哲学的問題であり、『哲学的ゾンビとゲーム画面の共有』における考察も「どうやって他者の存在を承認するか」という目的意識に貫かれている。しかし、それは「哲学的ゾンビ」が導き出す問題の一側面でしかない。


 『哲学的ゾンビとゲーム画面の共有』では直接記されていないが、ぼくが「他人がロボットに思える」という悩みを抱えると同時により恐ろしく感じていたのが「では、他人から送られてきたメールは、本当にその人が書いたといえるのか」という疑問であった。


 もし人間に意識がないのだとすれば、その人の語る言葉もまた意識を介さずに生成され、意識を介さずに送信ボタンが押されていることになる。あらゆる人間の手によるメッセージの作成は無意識で行われ、自由意志の要素が1グラムも含有されないままぼくの手元に届いていることになる。


 『哲学的ゾンビとゲーム画面の共有』が「画面」についての考察であったように、「哲学的ゾンビ」は「メディア」の問題でもあるのだ。


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 「哲学的ゾンビ」の感覚に囚われ、あらゆるメールの作成が自動筆記によって行われているように思えたとしても、その送り手が「実体」として想像できる場合には事態はそこまで緊急を要さない。送り手である存在を「高度な自動手記人形」や「根っからのシュールレアリスト」だと思い込みさえすればいい。そのうえで、「この世界に“心”はないが“物”がある。これで私は完全なる唯物論者になったのだ」とアイデンティファイし直しさえすれば言う事なしだ。


 しかし、送り手の姿が想像できない場合、事態は急速に荒廃する。


 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』には声優・千葉繁による長尺の語りで有名な「友引前史」と呼ばれる場面がある。小難しい言い回しやメタなパロディが詰め込まれた、まさに“押井節”ともいえるその長い語りの中で、急展開した物語への以下のような説明が加えられている。

奇妙なことにあたるの家近くのコンビニエンスストアは押し寄せる荒廃をものともせずにその勇姿を留め食料品、日用雑貨等の豊富なストックを誇っていた。そしてさらに奇妙なことにあたるの家には電気もガスも水道も依然として供給され続け、驚くべきことに新聞すら配達されてくるのである

メガネ著「友引前史」第一巻・終末をこえて 序説 第三章より抜粋

 日常から非日常への移行が明確なものになる中盤のシリアスな気配が続く中で、太字で引いた箇所は「いくらなんでも、それは」と少しだけ笑いを誘うようなギャグ的なポイントとして演出されている。


 しかし、「哲学的ゾンビ」による他者の不在、メディアの不在の感覚は、まさにこの太字の箇所によって語られている世界観の変容と同じ事態を指し示す。新聞社も新聞記者も、スーパーカブに乗ってやってくる配達員も存在しない。誰によって“配達”されているのかわからないが、とにもかくにも「新聞が配達されてくる」のである。ギャグにでもしない限り、到底受け入れることの出来ない非日常的な事態はここを臨界点としてやってくるのだ。


 人間はどんなに環境が変化しても次第に慣れていく習性をもつ。「友引前史」で語られている世界の変容についても同様である。あたるの家に供給され続ける生活インフラや無人のコンビニエンスストアも、考え方次第では全く非日常たりえない。

 なぜなら「地球」とは、そもそもそういうものとして「人間」に与えられているからだ。


 この世界から人間たちがいなくなったとしても、川には水が流れ、大地には食べ物となる果実が実り、太陽からは燦々と灯りが降り注ぐ。まるでどこかの神話のようだが、「贈与」があればそれは「自然」から届いていると常に解釈するのが、人間の環境適応能力である。コンビニエンスストアの商品管理システムも、生活インフラの構造も、よく知らないままぼくたちは日常を過ごすことができる。


 ただ「新聞」はどうか。ユダヤ・キリスト教文化圏において「神は最初に“言葉”を作った」という一文で片付けられている「ロゴス」の誕生秘話を、『ビューティフル・ドリーマー』は「新聞が配達されてくる」という形で語り直す。

 衣食住が贈与されるのは非日常的な世界設定として必要なのはいいとして、なぜ新聞配達の部分まで描かなければならないのか。


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 『ビューティフル・ドリーマー』には、ぼくたちが日頃何気なく過ごしている社会や生活環境への客観的な批評性が宿ったいわば「社会派」的な作品評価が集まることもあり、それらはもちろん有効で豊かな解釈なのだが、この作品を鑑賞する時の素朴な幻惑感やホラー感に少しでも言葉を与えるとすれば、このような素朴な哲学的語彙を完全に回避することはなかなかにむずかしい。押井守の衒学的なスタイルは“押井節”といわれるようなパロディーとしての衒学性だけでなく、哲学的に素朴にいい話をしている場合だって少なくないのだ。

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