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世界はなぜ広いのか〘2〙──人間原理について

 前回の記事で触れた「人間原理」について聞き慣れない人もいると思うので、ここで簡単な説明と補足、および問題点と可能性について書いてみたい。


 ウィキペディアの「人間原理」のページの冒頭では、


【人間原理(にんげんげんり、英語: anthropic principle)とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理を用いる。これをどの範囲まで適用するかによって、幾つかの種類がある。

人間原理を用いると、宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるが、これを自然科学的な説明に用いることについては混乱と論争がある】


という説明がされている。



 「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理を素直に取り入れれば、観測できた範囲を“宇宙”と呼んでいるだけで「この世界」の全貌についてはよくわからない、という投げやりな結論になりそうなものだが、それは物理学的な結論としても真っ当なようだ。


 しかし、人間原理の思想的恐ろしさは〈人間〉と〈宇宙〉の立ち位置をひっくり返すことで発揮する。すなわち、先の論理に当てはめれば、「人間が宇宙の観測に適しているのは、そうでなければ宇宙は人間を観測し得ないから」という逆説的な世界把握が可能になる。

 後半の「宇宙が人間を観測する」という部分を、「宇宙が人間を誕生せしめる」と解釈することは、自然科学的に何も問題はない(宇宙が紆余曲折を経て銀河や惑星、ひいては地球を生み出し、そこからさらに生き物たちへと枝分かれしてきたのだから)。


 科学的世界観であると同時に、「ガイア理論」的なスピリチュアルな世界観とも整合性が取れてしまうところに、人間原理という考え方の捨てきれなさがある。といっても、こういう考え方をむやみにひとに話すことは難しい。

 仮に、「流れ星は私に発見されるために空を横切っている」というようにロマンティックな表現を使うとしても、人間原理を突き詰めれば「望遠鏡という発明もまた、私に流れ星を発見させるために存在していた」という話になり(いや、それは全くその通りなのだが)、さらに突き詰めることで「私に望遠鏡を譲ってくれたあの人も、私が流れ星を発見するために存在していた」という話へも展開する。

 ここまでくると、叙情詩を通り越してスピリチュアルな匂いしかなくなってくる。ロマンティックでスピリチュアルなだけならいいが、自分に寄与するものとして他者を認識するような“沼”に陥る危険性があることも忘れずに世界に思いを馳せなければならない。


↓ さらなる補足はこちら



 



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