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物理学的世界観との出会いと別れ

 先日、たまたま見つけたブックオフで個人的に懐かしい本と再会した。

『【図解】相対性理論と量子論』佐藤勝彦[監修]/PHP研究所

 定価税込で500円ポッキリ。買い物のついでにワンコインで気軽に買える、いわゆる「コンビニ本」というやつだ。

 とある理由でぼくはこの本を手放していたのだが、最近よく思い出すことがあり、あらためてその内容を確かめたいと思っていた。今まで古本屋でこの本を見かけたことがなかったのにもかかわらず、このタイミングで遭遇するとは何事か。アポーツだろうか。

 いつのことだったか、ぼくはこの本を読んで初めて「量子論」なるものを知り、非常にワクワクすると同時に恐ろしくもなった。

 奥付を見ると発行は「2006年の6月」となっている。毎日通っているコンビニに現れたのを発見してすぐに購入した記憶があるので、この本と出会ったのは発行時点とほぼ同時期だろう。

 一体当時のぼくは何を思ってこんな本を手に取ったのか。

 当時のぼくがこんな本を「フムフム」などとわかったつもりで読んでいる風景を想像するだけで痛々しい。

 それから紆余曲折、あらためてこの本について思うことは

「まぁこれとて、ただのエクリチュールに過ぎないんだよな」

という身も蓋もないものであるが、この一冊との出会いによってぼくの頭が著しく狂ってきたのは言うまでもない。


 この本には“トンネル効果”についてこういう記述がある。

ボールを壁に向かって投げれば、壁に当たって返ってきます。でも気が遠くなるほど投げ続けたら、ボールが壁をすり抜けることがあるかもしれません。

『【図解】相対性理論と量子論』佐藤勝彦[監修]PHP研究所、p194


 この一文がぼくの頭を狂わせたのかもしれない。

 みんなが絶対的真理として疑わない「科学的事実」の中で、こういう結論が出てしまっているのか・・・と。

 ぼくがどれだけ常識外れな言動をして周囲から非難されたとしても、「いや、しかし、量子の実験からみればね・・・斯々然々」と、あくまで科学的に正しい文言を使って言い返すことができるんだ、と。


 そんな風に間違えていく発端を、この本のせいにしたいという気持ちがある。

 あの日あの時、この本に出会っていなければ、もっとシンプルな、もっと素朴な世界観の中で人生を送ることができたのではないか、と。

 しかし、そういうわけにもいかないだろう。


 2006年から早17年。今でも「最先端の科学」として紹介され、自己啓発やスピリチュアルなものの科学的な説得材料としても用いられている量子論の概要は、あくまで一般向けに書かれたこの『【図解】相対性理論と量子論』に出てきた、わかりやすく大袈裟な表現から何も変わったところがない。

 もちろん専門的なレベルでは日々新発見があり、量子論も更新されているのだろうが、専門外の一般的な人々に了解可能な形での存在意義の部分はといえば、2006年からあまり変わってないといえる。

 おそらく、相対性理論も量子論も、専門的に追求する以外での説明の仕方に、ある種の限界があるのだろう。科学がどれだけ発達しても、それをどう受け取るかはまた別の問題として、謎はいつまでも残り続けるのだ。

──

 今の哲学・思想の界隈には、量子論についてさわりだけでも参照しておくことを最低限の「思想的マナー」、もしくは「踏み絵」のように活用している部分がある。主観に満ちた哲学・思想の思考の中に、申し訳程度の客観的裏打ちを添えておくかのように。

 それはつまり、「それって、わたしの人生でなんの役に立つの?」という観点をあらかじめフィルタリングしておくことで、無用な対話を回避し、より研ぎ澄まされた世界認識への舗装路を「量子論」という名のセメンタイトによって拵えている現状を示している。

 人生の中で折りに触れて「そういえば二重スリット実験ってどんなもんだったっけな」と思い返したりしているぼくも例に漏れず、もし自分の哲学を本に著すとしたらどこかに量子論の話を入れてしまいそうである。何か深遠な知識でも持っているかのような顔をして。

 でもそれこそ罠なのだろう。


 最近のぼくはむしろ相対性理論の方に興味が傾いている。量子論を参照した思想はよく目にするが、相対性理論を力強く取り入れたものはあまり見かけない。しかし、一般相対性理論と特殊相対性理論のさらなる深堀りの中には、今までぼくが見落としていた物理学的世界観の新たな諸相がありそうなのだ。それについては、またどこかのタイミングで書くかもしれないし、書かないかもしれない。

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