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推し、燃ゆ: 魂の死を伴う物語が好き

 推しというものができなくなって久しい。確か中学生くらいまでは、特定のキャラクターが大好きで、推し、に近い感覚を抱いていたように思う。部屋の壁に好きなキャラクターのポスターを貼り、食玩のような可愛らしくデフォルメされたフィギュアを集め、集めたグッズをディスプレイする専用の棚を作っていた。さながら推しキャラクターの博物館である。それも高校生あたりから興味が薄れ、今では完全にやめてしまった。
 友達との会話から始まった「推しキャラ」は、幼い私にとって、未発達な自我に部分的に融合した外付けの人格のような性質があった。自分ってこんな人なんだ、とうまく伝えられなくても、このキャラが好きなんだ、と言うことは簡単にできる。自由に操れる言葉を持たない子どもの私にとって、「推し」はインスタントな自己表現の一部であった。
 宇佐美りんさんの「推し、燃ゆ」は、現代のJ-popにおける推し文化を題材にした小説。文庫本で150ページくらいと、かなり短くて読みやすいのでおすすめ。

 「推し、燃ゆ」はあまりに話題作なので、①主人公の推しが炎上する ②カタストロフ というあらすじは読む前に耳にしていた。表紙を捲る前、①→②の流れがスムーズに起こるためにはどういう主人公が必要かな〜ということを考えていた。読んでから見直すと、そもそも着想が逆なんだろうな、という感じですが…。

1. 主人公はおそらく若い(10-20代?)。推しの瓦解を他の要素で支え切れないくらいには、自分を構成する要素が細分化していないはず。
2. 何らかの理由で、自信が持てない状態にある。一人暮らし、あるいは家族と疎遠?特定のスポーツ、勉強、リーダーシップなど、能力ベースの自信があるタイプではない?

 現代的な推し文化に対する理解の深さが注目される作品だけれど、実際に読んでみると、一番の魅力はやはり主人公の人物描写だと思った。推しを推すことは主人公がたどり着いた一つの生き抜く方法であって、本当に中心の題材になるのは、抜け出す希望を持てないような苦しみを抱えた若者(子ども)のポートレートなのだろう。子どもは自分で環境を変えるだけの力を持たないので、一番有効な対処が「環境が変わるまでじっと耐える」だったりすることも少なくない。これはもちろん大人になってもありうることだけど、耐え忍んだ経験も、気を紛らす知恵もまだ少ない子どもからすれば、大人よりはるかに耐え難いものである。
 「推し、燃ゆ」は英語訳が "Idol, Burning"というタイトルで出ているので、英語読者のレビューもたくさん見ることができる。見てみると、時にtoxicになりうるJ-pop文化への批判とか、希薄でドライな家族関係への戸惑いが日本のレビューより多く書かれていて面白かった。自分は文化的なバックグラウンドが主人公に近いので感覚的に分かる〜と思ったところだけれど、属する文化や家族関係が自分のアイデンティティにならない(特に子供のうちは周りを見渡しても日本系の日本人ばっかりだったり、互いに忙しくて関わらない家族には愛着が湧きにくかったり)という状態は、他の文化圏から見るとびっくりなこともあるのでは。

魂の死を伴う物語が好き

 登場人物が、自分を自分たらしめていたもの、自分をこの世に繋ぎ止めていたものを失っていく話は多くある。生きる糧をほとんど失ってしまうと、人はもはや人として生きることができない。「推し、燃ゆ」のラストシーンはPaul AusterのSunset Parkを思い出すところがあって、本当に大好きになった。そういえば、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」が大好きなのは、魂の死が肉体の死を引き起こすような話だからかもしれない。

受験期に夢中になって読んだけど、絶対タイミングを間違えてた気もする

 こういう物語は、当然ながらいわゆるバッドエンドだったり、辛くて重くて暗い話になるのだが、それ故の魅力がある。まず、彼らを生かしていたものが何だったのか、という主題が浮かび上がる様が美しく感じられるところ。さらに、それだけの苦しみを生じさせた個人的背景や、社会状況を的確に写し出すところ。「推し、燃ゆ」の文庫版の解説では、「喪失を描いた作品が、喪失を埋める」とあったが、これも魅力の一つだろう。辛いことがあった時ほどこういう物語は救いになるし、それを乗り越えたあとにも深い喜びを与えてくれる。
 最近、同年代の知り合いと話をしていると、登場人物が苦しんでいる作品は辛いから見たくないし、バッドエンドなんてもってのほか…という人がときどきいる。SNSを見ていると、暗い展開が続くと著者に対して怒ったり、不満を示している人を見かけることもある。そういう場合って、どういう形の物語が好きなんだろう…と考えていたが、もしかすると、その場合に求められているのは物語ではなく、安心して「推し」にできるようなキャラクターなのかも。推しの喜びは自分の喜び、推しの苦しみも自分の苦しみ…できることなら、ずっとハッピーで平和な推し活をしたい。何たって現実は苦しいから…そう考えると理解できた気がするけど、実際のところはわからない。アイドルファンの友人曰く、推しは作るものではなく自然にできるものだという。私には「自分を注ぐ」「背骨になる」ほどの推しはできなくなった、と思っているけど、またいつか推しのある時が来るのかな?と考える時間になった。

 



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