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よそ者が京都でモノづくりをする上で大事にする価値観

京都の深いところは、全くわかっていないという、自分を守るための前提をおいた上で。

職人という言葉から連想されるイメージは二つ。

美しい。そして怖い。
職人がなぜ美しいのか、そして、なぜ怖いのか。
最近、思う理由の一つ。
それは、わかりやすい指標、例えばお金という価値体系を否定し、自ら価値があると思うものをつくるために、技術を極め、自分を磨き続けられるからだ。技術が価値を生み出せると信じ込んでいる。例え評価されないとしても。滅びゆく文化だとしても。

現実的な話を書くのは好きではない。言葉をきっかけに浸れる思考の世界において、人は現実社会から逃れられ、自由でいられると思う。だから現実を突きつける暴力的な手段として言葉を使いたくない。

ただ、これが現実だなと。
職人は、美しいものを守り、美しさをつくるために、時には否定をしないといけない。正しさを証明しなければならない。“正しいことは、美しいこと”という言葉があるように。

・・・

さて、本日の本題。
私は京都の焙煎所で、焙煎土をしています。まだ1年も経ていないけど、見習いではなく、正式に焙煎土です。実際に焙煎もしています。毎週、どこかで、だれかに何百杯、何千杯は飲まれ、淹れているだろコーヒー豆を焼いています。まだ、その感覚に慣れていませんので、ふとした時に手が震えるのですが。
運がよくも、入社した時期に、焙煎土の役職が空くことになり、すぐに焙煎機の前に立てました。

コーヒーの生産現場、乾燥中のコーヒー豆

 別で表現すれば、そもそも若さをかける、かけ事が好きな人だけが、コーヒーを仕事としてやり続けているのでしょう。

日本に移り住んで7年目。
札幌、別府と移り住み、次は京都。
正直に、一番住み心地が良くないのは京都です。京都は美しい街だけど、なぜか同時に醜さも感じてしまうのです。醜さとして捉えてしまうのは、私が日本人ではないからでしょうか。
美しいあまりに、日本人の醜さも、偏見とエゴイズム、排他性を感覚的な部分ですがひしひしと感じてしまうのです。感覚的によそ者にとって、京都の空気は重く感じられる。

ただ、そもそも京都に住み心地の良さを求めてきたわけで、上京(都)したわけではない。ここで極めた技術を、研ぎ澄ませた美学を、日本ではないより広い世界で、より多くの人に伝えたいと思っている。上手い形で融合させ、多様性に溶け込ませて。
だから、古都に対する敬愛を持つ上で、京都という街は一歩引いた距離感でいるのです。これは仕事においても同じ。

少し一歩引いた距離感で、コーヒーに夢中になりたい。一歩引いた距離感にこだわり、引いた距離感でコーヒーをやり続けて、いつしか素晴らしいコーヒーマンとして残りたい。そういう職人の例がないのであれば、私が、その例になってやろうと意気込む。

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