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【お試し版】戯曲『武器と人(Arms and the Man)』

1885年のセルビア‐ブルガリア戦争を舞台に、街に逃げてきた逃亡兵と名家の令嬢の出会いを描きつつ、軍国主義を鋭く批判する。後に英国作家ジョージ・オーウェルが「おそらく、彼が書いた中でもっとも機知に富み、技術的にも完璧で、非常に軽い喜劇であるにも関わらず、後世に渡って語り継がれる劇となった」 と述べて絶賛した本作だが、残念ながら、現在ではほとんど手に入らない状況にある。
そこで、今回、第五弾となる上地王植琉の私訳古典シリーズでは、『武器と人』を新たな訳とともに注釈付きでお送りする。

原作:バーナード・ショー
翻訳:上地王植琉

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よろしければ、ご支援よろしくお願い致します。
※本作はパブリックドメイン作品を新たに訳したものになります。

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 ある夜、ブルガリアのドラゴマン峠近くの小さな町にある貴婦人の寝室。
 一八八五年十一月下旬、左手に小さなバルコニーのある開け放たれた窓からは、星明かりに照らされた雪に白く美しく輝くバルカン半島の峰が見えている。
 部屋の内装は、東欧で見られるようなものとは違う。半分が高級なブルガリア風で、半分が間に合わせのウィーン風だった。ベッドの装飾カバーや壁紙、窓のカーテン、小さなカーペットなど部屋の中の装飾用の織物はすべて東洋的で豪華だが、壁紙は西洋的で質素だ。ベッドの頭上には、部屋の右隅を斜めに切り取った小さな壁があり、青と金で塗られた木製の祭壇があり、象牙作りのキリスト像と、その前には三本の鎖で吊るされたピアス型の金属球に入った室内灯がぶら下がっている。左側、さらに前方には腰掛けがある。
 左側の壁際にある洗面台には、エナメルの鉄製の洗面器と、その下のペール缶、塗装された金属製の枠、そして脇のレールにはタオルが一枚置かれている。その近くにある椅子は、オーストリアの曲げ木で座面は杖になっている。ベッドと窓の間にある化粧台は普通の松のテーブルで、様々な色の布がかかっているが、その上に高価な化粧鏡が置いてある。右側には扉があり、扉とベッドの間にはタンスがある。
 このタンスも多彩な原色の布で覆われており、その上には小説本の山、チョコレート・クリームの箱、小型のイーゼル、その上には肖像画からでもその高尚な風格と引きつけられるような視線が感じられるであろう、非常にハンサムな将校の大きな写真が置かれている。
 部屋にはタンスと化粧台の上に蝋燭があり、その横にマッチが置かれている。窓はドアに蝶番があり、左側に折り返して大きく開いている。その外にある一対の木製の雨戸も外側に開いている。
 バルコニーでは夜のロマンチックな美しさと、自分の若さと美しさがその一部であることを強烈に意識している若い女性が、雪に覆われたバルカン半島を見つめている。彼女は毛皮の長いマントで覆われており、それは控えめに見積もっても部屋の家具の三倍ほどの価値がある。

 彼女――レイナ・ペトコフの夢想は、母親の登場によって中断される。

 カトリーヌ・ペトコフは見事な黒髪と瞳を持った四十代を過ぎた女性で、威圧的で活力に溢れており、山の農夫の妻であれば素晴らしい見本になり得るが、本人はウィーンの貴婦人になることを決意し、そのために流行のティーガウンをあらゆる場面で着用していた。

カトリーヌ    「(良い報せに満たされ、急いで入ってくる)レ~イナ!(彼女は「ラー・イーナ」と発音し、「エー」を強調する)レイナ!(彼女はベッドに向かい、レイナを見つけると思ったがいない)えっ、なんで、どこなの?(レイナが部屋を覗き込む)なんてこと! 子どもね、ベッドの中じゃなく、夜風に当たっているの? 風邪をひくわよ。とっくに眠ったと、ルカは言ってたのに」
レイナ      「(部屋に入ってきて)追い払ったのよ。一人になりたかったし、それに星がとてもきれいだもの! どうかしたの?」
カトリーヌ    「こんな知らせが来てたわ。戦いがあったのよ!」
レイナ      「(目を輝かせて)えっ、そうなの!(外套を腰掛けに投げ捨て、ナイトガウンのまま熱心にカトリーヌに駆け寄る。可愛い服だが、明らかに彼女はこれだけしか着ていない)」
カトリーヌ    「スリヴニツァの戦い(1)よ! 勝ったの! セルギウスが勝利したの!」
レイナ      「(歓喜の叫びをあげて)ああ!(有頂天になって)そんな、お母様!(それから急に不安になって)そ、それより、お父様は無事なの?」
カトリーヌ    「もちろん。私に報せを送ってくれたわ。セルギウスは時の勇者で、連隊の人たちから崇拝されているのよ」
レイナ      「教えてよ、教えて! どうだったの?(恍惚とした表情で)ねぇ、お母様! お母様ったら!(レイナは母を腰掛けに引き倒し、夢中になって手に口づけする)」
カトリーヌ    「(溢れんばかりの情熱で)どんなに素晴らしいか、想像もつかないわよ。騎兵隊の突撃だなんてね! 彼はロシア軍に反抗して――命令もなしに――自分の責任で突撃して――自ら先頭に立って――そして、初めに敵の砲門を突破したの! レイナ、想像できますか? 剣と目を輝かせた勇敢なブルガリア人が雪崩のように押し寄せて、哀れなセルビア人どもを籾殻のように蹴散らしている様子が! そしてあなたは――セルギウスとの婚約を一年も待たされたのよね。ブルガリアの血が一滴でも流れていれば、彼が戻ってきた時に、彼を崇拝することになるわ!」
レイナ      「英雄が全軍の喝采を浴びた後で、私との貧しく小さな崇拝にいかほどの関心があるのでしょうね? でも、そんなことは問題じゃないわ。私はとっても幸せで――とても誇らしいの!(彼女は立ち上がり、興奮気味に歩き回る)結局、私たちの考えはすべて本物だったという証明になりますからね」
カトリーヌ    「(憤慨気味に)私たちの考えは本物よ! どういう意味なの?」
レイナ      「私たちはセルギウスがどうするのかと考えていたじゃない。でも彼の愛国心とか、英雄的な理想像を思い描いていたんじゃなくって……ああ、女の子ってなんて不誠実な生き物なんでしょう! 私、夢なんじゃないかって疑っちゃったの。セルギウスの剣を握った時、彼はとても気高く見えたわ。幻滅や屈辱、失敗を考えるのは彼への反逆だった。でもね、それでも……(急に)ねぇ、彼に言わないと約束して!」
カトリーヌ    「勝手に約束しないで。何を言うつもりなのか知らないけど」
レイナ      「彼が私を抱きかかえて、私の瞳を覗き込んでいる内に、私たちが彼に英雄的な考えを抱いたのは、バイロンやプーシキンを愛読し、ブカレスト(2)でそのシーズンのオペラに大満足したからではないか、と思い当たったの。現実にはそんなことは滅多にないじゃない――実際、皆無よ。私の知る限りはね(悲しそうに)お母様、私は彼を疑ってしまったんです。彼の英雄的な素質や軍人魂が、実戦に本物の戦いに出た時に、単なる想像に過ぎなくなってしまうのではないかって思ったの。ロシアの士官たちの前で醜態を晒すことになるのではないかって不安になったわ」

カトリーヌ    「みすぼらしいこと! 恥を知りなさい! セルビア軍にはロシア軍にも劣らぬ腕利きのオーストリア人士官がいますが、我々はあらゆる戦闘で彼らに勝利しているのですよ!」
レイナ      「(笑いながら再び座って)そうね、私は平凡な臆病者に過ぎないわ。ああ、本当だったのよ――セルギウスは見た目どおりの気高く立派な人――この世界は、その栄光を間近で見ることができる女性と、そのロマンを演じることができる男性にとって、本当に輝かしいものなのだわ! なんという幸福でしょう! 言いようのない幸せよ! ああ!(彼女は母の側に膝をつき、腕を熱く振り回す。これはルカの登場によって中断される。ルカはブルガリアの農民服を着て、二重のエプロンをした、誇り高く、堂々とした少女で、レイナに対しては横柄でほとんど従順さはない。彼女はカトリーヌを恐れているが、相手がカトリーヌであっても恐れずにあえて自らを突き通す。今、彼女は他の人と同じように興奮しているが、レイナの歓喜に共感することはなく、二人の恍惚を軽蔑的に見てから声をかける)」
ルカ       「よろしければ、奥様。窓をすべて閉めて、早く雨戸を締めてください。彼らが言うには、通りで銃撃戦があるそうです(レイナとカトリーヌは警戒して同時に立ち上がる)セルビア兵が峠を越えて町に逃げ込むかもしれません。彼らが逃げ出した以上、騎兵隊が彼らを追いかけるでしょうし、国民もまず間違いなく彼らを迎え撃つために準備をしているでしょう (彼女はバルコニーに出て、外の雨戸を引き、そして部屋に戻ってくる)」
レイナ      「私たちの国民がそれほど残酷でないことを祈っています。惨めな逃亡者を殺すことにどんな栄光があるのでしょう?」
カトリーヌ    「(事務的に、彼女の家事の本能が呼び起こされる) 階下の安全を確かめないと!」
レイナ      「(ルカに)雨戸はそのままにしておいて。物音がしたらすぐに閉めますから」
カトリーヌ    「(威厳を持ってドアに向かう)ああ、ダメダメ。ちゃんと閉めておかないと。開けっ放しで寝たら大変よ。しっかり閉めてね、ルカ」
ルカ       「はい、奥様(彼女は雨戸を固定する)」
レイナ      「私のことは心配しないでいいわ。銃声を聞いた瞬間に蝋燭を吹き消して、耳を塞いでベッドに入るから」
カトリーヌ    「それが一番賢明な方法よ。おやすみなさい」
レイナ      「おやすみなさい(二人はキスを交わし、レイナの感情が一瞬戻ってくる) 私の人生で一番幸せな夜の喜びを邪魔する逃亡者がいないことを願って」
カトリーヌ    「もう寝なさい、レイナ。彼らのことは考えないでいいわ(彼女は出て行く)」
ルカ       「(レイナに密かに) 雨戸を開けたいなら、こうやって押せばいいのよ(彼女が押すと、雨戸が開く。引っ張って再び雨戸を閉める)本当なら閂があるはずなんだけど、なくなっちゃったの」
レイナ      「(威厳を持って、彼女を叱る)ありがとう、ルカ。でも、私たちは言われたことをしなくちゃいけないわ(ルカはにやにやと笑う) おやすみなさい」
ルカ       「(ぞんざいに)おやすみなさい(彼女はふらふらと出て行く)」

 一人残されたレイナはタンスの前に行き、そこにある肖像画を言いようもないほどの感情で崇拝する。彼女はそれに口づけをしたり、胸に押し当てたり、肉体的な愛情を示すようなことはしないが、それを手に取って巫女のように高く掲げる。

レイナ      「(崇拝の念を込めて肖像画を見上げて)ああ、私はもう、あなたに相応しくない人間にはならないようにしますわ――決して、決して、決して!」

 彼女は小さな本の山から小説を選び、その内の一冊を恭しく手に取る。夢見心地でページをめくり、自分が読んでいたページを見つけ、その本を裏返しにし、幸せなため息をつきながらベッドに入り、読みながら眠る準備をする。しかし、物語に身を委ねる前に、彼女はもう一度目を上げて、祝福された現実を思い浮かべ、こう小さく呟く。

レイナ      「……ああ、私のヒーロー! 私だけのヒーロー!」

 遠くの銃声が外の夜の静寂を破る。彼女は耳をそばだて、驚いてベッドから起き上がり、タンスの上の蝋燭を急いで吹き消す。そして、耳に指を入れて、化粧台に駆け寄り、その明かりを消して、急いでベッドに戻る。部屋はすっかり暗くなる。肖像画の前にある貫通した玉の光と、雨戸の上部のスリットから見える星の光以外には何も見えない。
 再び発砲が起こり、すぐそばで一斉射撃が開始される。それがまだ反響している内に、雨戸の外から開き、一瞬、雪のような星明かりの長方形が、部屋に飛び込んでくる黒服の男の姿を照らし出す。雨戸はすぐに閉まり、部屋は再び暗くなる。しかし、その静寂を破るように、今度は喘ぎ声が聞こえてくる。それから、マッチを擦る音がして、部屋の真ん中に炎がポツンと浮かび上がる。

レイナ     「(ベッドにしゃがむ)そこにいるのは誰?(マッチはすぐに消える)誰かそこにいるの? 誰?」
男の声     「(暗闇の中で、控えめに、しかし威嚇的に)しー! しー! 大声を出すな、撃たれたいのか。いい子にしてろ、そうすれば危害は加えない(彼女がベッドを離れ、ドアに向かう音がする)気をつけろ、逃げようとしても無駄だ。いいか、もし声を荒げたら、この拳銃が黙っちゃいないぞ!(命令口調で)聞こえるか? 灯りを点けて姿を見せろ(また一瞬の静寂と暗闇。そして、彼女が化粧台に戻る音が聞こえる。彼女が蝋燭を点し、声の謎が解ける。それは泥と血と雪にまみれた三十五歳ぐらいの男で、かなり悲惨な状態だった。ベルトとリボルバーケースの紐で、セルビア砲兵将校の青いコートの破れた残骸を繋いでいる。蝋燭のぼんやりとした光と、その洗濯をしていない、手入れの行き届いていない状態から判断する限り、彼は中肉中背の目立たない男だった。首と肩はしっかりしており、頭は丸く頑固そうで、短いブロンズの巻き毛で覆われており、目は澄んだ青で、眉と口は良く、気の強い赤ん坊のようなどうしようもなく平凡な鼻をしている。軍人らしい立派な身なりと元気な態度で、絶望的な苦境にもかかわらず、あらゆる知恵を駆使して――ひょっとすればユーモアさえ感じさせる態度だが、生き延びる機会を軽視したり、捨てようとはまったく思っていない。彼はレイナについて推測できること――年齢、社会的地位、性格、彼女が怯えている程度など――を一目で計算し、さらに丁寧に、しかし断固として続ける)お騒がせしてすみません。ですが、あなたは私の制服がわかるでしょう――そう、セルビア兵です。もし捕まったら、私は殺されてしまう(断固として)ご理解いただけましたか?」
レイナ     「え、ええ……」
男       「まあ、できるのなら、殺されたくはない(さらに決然として)おわかりで?(彼は鍵掛でドアを開かないようにする)」

レイナ     「(軽蔑して)そうでしょうね (彼女は身を起こし、彼の顔をまっすぐに睨みつけて、強調して言う)兵士の中には、死を恐れる者もいるそうですからね」
男       「(重苦しくも、上機嫌に)すべての、ですよ、お嬢さん。すべての兵士がそうなのです。私を信じてくださってもいい。出来るだけ長く生き、出来るだけ多くの敵を殺すのが我々の義務です。なので、今、もし叫び声を上げたら――」
レイナ     「(言葉を短く遮って)あなたは私を撃つんでしょう。私が死を恐れているなんて、どうして知っているの?」
男       「(狡猾に)ああ、しかしながら、私があなたを撃たないとしたら、どうなるのでしょうね? なぜかというと、騎兵隊が大挙して押し寄せ――あなた方の陸軍の中でも飛び切りの荒くれ者どもが――あなたのこの美しい部屋に乱入して、私を豚のように惨殺するでしょう。当然、私は悪魔のように奮闘しますので、誰一人として通りには出られないでしょう。私は彼らが何であるか知っています。あなたは今の服装で、そんなお客さんを迎える準備ができていますか?(レイナは突然、自らの寝巻きを意識し、本能的に縮こまり、上からさらに一枚を身に纏う。男は彼女を見ながら、情け容赦なく言う)かなり貧弱そうだな、え?(彼女は腰掛けに向かい、彼は即座に拳銃を持ち上げて叫ぶ)やめろ!(彼女は立ち止まる)どこに行こうってんだ?」
レイナ     「(凛として忍耐強く)私の外套を取るためです」
男       「(腰掛けに飛びつき、外套をひったくる)いい考えだ。この外套は私が預かっていることにしよう。誰も来ないように気をつけるんだ。これはピストルよりもいい武器に違いない(彼は拳銃を腰掛けに投げつける)」
レイナ     「(反旗を翻して)それは紳士の武器じゃないわよ!」
男       「男にとっては、自分と死と合間にあなたが立ってくれるというだけで充分なのです (レイナはセルビア軍の士官が、これほどまでに冷笑的で利己的な騎士道精神に欠けるとは信じられず、しばらく互いを見合っていると、通りで聞こえた鋭い銃声に驚かされた。次第に迫ってくる死の寒気が男の声を曇らせ、このように付け加えた) 聞いたか? あの悪党どもを呼び寄せるのなら……そうすればいいさ(レイナは冷徹な蔑みをもって彼の目を見据える。突然、彼は耳を傾けると外で足音がする。誰かがドアを開けようとし、慌てて強くドアをノックする。レイナは息を切らしながらその男を見る。彼はもうダメだと言ったように頭を上げ、彼女を威嚇するためにとっていた態度をやめて、外套を彼女に投げつけ、心からこう叫ぶ)ちっ、着ちまったか。もうダメだな。早く! 早くそれを着るんだ! 奴らが入ってきちまうぞ!」
レイナ     「(熱心に外套を受け取って)どうも、ありがとう(彼女は安堵して外套を羽織る。彼はサーベルを引き抜き、ドアの方を向いて敵を待ち受ける)」
ルカ      「(外からノックして)お嬢様! お嬢様! さあ起きて、早くドアを開けてください!」
レイナ     「(心配そうに) 何をするつもりなの?」
男       「(ニヤリと)気にしないでいい。そのまま何もしないで。どうせ、そう長くはいないだろうから」
レイナ     「(衝動的に)手伝うわ。隠れて、さあ、早く! カーテンの後ろに(彼女は彼の袖の破れた部分を掴み、窓の方へ彼を引っ張っていく)」
男       「(彼女に屈して)あなたが冷静であれば、まだ生き延びる望みが半分ある。兵士という奴は十人中の九人は生まれつきの馬鹿ですからね(彼はカーテンの後ろに隠れ、しばらく外を見てから最後に言う)もし見つかれば、死闘を演じることを約束しましょう……悪魔の戦いをね!(彼は姿を消した。レイナは外套を脱ぎ、ベッドの足もとに投げ捨てる。そして寝ぼけたような不穏な空気のまま扉を開ける。ルカが興奮気味に入ってくる)」
ルカ      「バルコニーの水道管を登っている男が目撃されたそうよ。セルビア人が。兵隊が捜索に当たっているのですが、彼らは乱暴で酔っぱらっています。奥様は、すぐに服を着るようにと」
レイナ     「(眠りを邪魔されたことに苛立つように)ここでは探さなくていいわ。なぜ中に入れたの?」
カトリーヌ   「(急いで入ってくる)レイナ、あなた、大丈夫なの? 誰かに会ったり、何か物音を聞いたりしませんでしたか?」
レイナ     「銃声が聞こえたわ。兵士がここに入ってくることはないでしょう?」
カトリーヌ   「ああ、神様、感謝いたします。セルギウスを知っているロシア人将校を見つけたのよ!(扉越しに、外の者に向かって話しかける)閣下、入ってください。娘の準備ができましたので(ブルガリアの制服を着た若いロシア人将校が剣を手にして入ってくる)」
将校      「(柔らかなネコのような礼儀正しさと、軍人特有の堅苦しい身のこなしで)お邪魔して申し訳ないのですが、バルコニーに逃亡者が隠れているそうなのです。捜索の間、あなたとお母様はお引き取り願えませんでしょうか?」
レイナ     「(小馬鹿にしたように)冗談はおよしになって。閣下、バルコニーには誰もいないことがおわかりでしょう? (彼女は雨戸を大きく開け、男が隠れているカーテンに背を向けて立ち、月夜のバルコニーを指さす。その時、窓の真下で二発ほど銃声が上がり、弾丸がレイナの向かいのガラスを砕く。レイナが瞬きをして、はっと息を呑んで立ち尽くす一方、カトリーヌは悲鳴を上げ、将校がバルコニーに駆け寄る)」
将校      「(バルコニーで、通りに向けて激しく叫ぶ)打ち方止め! そこで発砲するのをやめろ! 聞こえているか? 愚か者ども!(彼はしばらく下をにらみつけ、それからレイナに向き直り、礼儀正しい態度に戻ろうとする)あなたの知らない内に誰かが入ってきたということは? 眠っていたのですか?」
レイナ     「いいえ、眠っていません」
将校      「(焦りながら部屋へ戻ってきて)どうやら、あなたの隣人は出没したセルビア人で頭がいっぱいで、どこにでもいると思い込んでいるようだ(丁寧に)ご婦人方、申し訳ない。それではおやすみなさい(軍人らしいお辞儀に、レイナも冷ややかに返礼する。男はカトリーヌにもう一礼し、カトリーヌは彼について出て行く。レイナは雨戸を閉めて振り返ると、不思議そうにその様子を見ていたルカがいる)」
レイナ     「ルカ、兵隊がいる間は母を置いて行かないでね(ルカはレイナ、腰掛け、カーテンを一瞥する。それから密かに唇を尖らせ、微笑を浮かべて出て行く。レイナは彼女の後を追ってドアに向かい、バタンとドアを閉め、激しく鍵をかける。男はすぐにカーテンの後ろから出てきて、サーベルを鞘に納め、能率的に危険を頭から追い払う)」
男       「危機一髪……というか、逃げられたんだから、五十歩百歩(3)といったところか。親愛なるお嬢さん、恩にきますよ。死ぬまであなたに仕えたいぐらいです。あなたのためにも、セルビア軍ではなくブルガリア軍に入隊したかった。私は生粋のセルビア人ではないのでね」
レイナ     「(高慢な態度で)いいえ、あなたはオーストリア人の一人でしょう! 私たちから国の自由を奪おうとセルビア人に仕向け、彼らのために軍を指揮したんですからね。彼らは大嫌いです!」
男       「オーストリア人ですって! いいえ、私は違いますよ。どうか嫌いにならないでください。お嬢さん、私はただのスイス人で、傭兵として戦ったまでです。セルビア軍に入ったのは、それが一番近かったからに過ぎない。寛大になりなさい、あなた方は私たちをこっぴどく打ち負かしたのですから」


注釈

1)スリヴァニツァの戦い 一八八五年十一月十四日に勃発し、同月の十一月二十八日まで続いた、ブルガリアの東ルーマニア併合問題をめぐる「セルビア‐ブルガリア戦争」の決戦となった戦闘。一八七八年のベルリン条約によって、東ルーマニアはオスマン帝国政府が任命し、列強が承認する知事が統治することになったが、八五年九月に反乱が起こり、臨時政府が成立し、ブルガリアとの合併を宣言。ブルガリア公アレクサンドルはベルリン条約後の現状維持を約束していたが、東ルーマニアの併合を受け入れた。これに対し、ロシアは態度を硬化させ、英国は合併を承認するなど諸列強の対立が続いた。結果、セルビアが率先して戦争を始めたが、この戦いに完全に敗北して停戦となり、列強はブルガリア統一を認めることになる。

2)ブカレスト 現在のルーマニアの首都。一八八一年にルーマニア王国が成立してから町の人口は劇的に増加。絢爛たる建造物で都市が整備され、『東欧の小パリ(Little Paris)』と讃えられる国際的な都市に成長する。

3) 五十歩百歩 原文では「a miss is as good as a mile(一インチのミスも一マイルのミスと同じ)」という英国のコトワザで、「ようやく逃れたのも楽に逃れたのも、逃れたことに変わりはない」という意味。


――つづく【お試し版はここまでです。続きは製品版でお楽しみ下さい】


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