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チープでメモ的な勝手に哲学 #002

神保町はけしからん街である。
そして、罪つくりな街だ。

勤務した先が神保町にあるため、
これまで「わざわざ、特別に、時間をつくって足を運んでいた街」が
平日の朝から夜まで過ごす場所に変わった。

その変化から、まだひと月半である。
にもかかわらず、この街で買った本の総額は8万円を超えた。

これでランチにラーメンやカレーをはじめとする「神保町グルメ」などに
手を出してしまうと散財どころでは済まなくなってしまう。

仕事終わりに「ちょっと飲んで行きますか!」なんてやり始めたら破産である。

もう、自分にとってこの街は「毒」であるといえよう。

麻薬なぞに手を出したら、こんな感じに自我を失い、
自らを制御できなくなるのではないかと疑似体験している感覚である。

50代になり、おそらく最後の職場となるところが神保町とは
18歳で上京したときの自分は夢にも思わなかっただろう。

しかし、なぜこうも神保町は本好きを惹きつけ、
神保町に足を踏み入れた本好きは自我を失ってしまうのだろうか?

大量の本に囲まれた空間が、自分の意識や感覚に何らかの作用を及ぼし、
日常では得にくい幸福感めいたものを与えてくれるのは実感している。

だから、書店や図書館にほとんど無意識のうちに
足を運んでいるのだし、自分という生物の習性であることも自覚している。

しかし、神保町という街は、そのさらに、さらに、さらに上をいくというか、
まったく違う次元で本好きを狂わせるものがある。

街の空気なのか、景色なのかは不明だが、確実に自分を狂わすものがある。

で、考えてみた。
自分は神保町の何に狂わされているのか。

結局、答えは出ないのだが、1つだけボンヤリ見えたことがあった。

それは本が溢れかえっている街にいることで、
自分の無知というか、無知識というか、無教養というか、
とにかく知らないことが多すぎる己を強烈に痛感していることである。

圧倒的な本の量を目の当たりにして
読んでも読んでも知らないことが減らないどころか、
自分が何も知らないことを叩きつけられるような感覚があるのだ。

それに少しでも抗いたい気持ちが湧き上がり、
自分を見失っているのかもしれない。

大学生の頃から坪内祐三や目黒考二という人物が神のように感じられ、
人生の圧倒的な時間を本との出会いに、
そしてそれを読むことに費やした人々に猛烈に憧れている自分が
大暴れするのである。

この感情、本当にどうにも止められない自分をメタ認知する感覚は
哲学するに値するものだと思う。

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