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あえて、子どもと「ひと悶着」する時間を。

子育てに関するプログラムの事後セミナーに参加してきた。

ファシリテーターの先生の話がとても勉強になるセミナーで、8人ほどの参加者が、ひとりひとり子育ての悩みを打ち明けた。

子どもの性別も年代も違うのに、それぞれの「母としての悩み」はどれも共感できるものばかり。
そして、それに対する先生の専門的かつ的確なお話は、やっぱり自分の「子育て観」によく響いた。

わたしも、自分の悩みを打ち明けた。

先月、我慢の限界で爆発してしまったこと。
あまり主張しないタイプの長男が心配で、押さえつけてしまっているのではないかと不安なこと。
次男が自由奔放すぎて、長男と次男とわたしと、誰をどう優先して過ごせばいいのか困っていること。

先生は、真剣に聞いてくださり、参加者の皆さんも、「わかるわかる」と頷いてくださって。
それだけで、なんだか泣きそうになった。

一か月前に爆発したときの、孤独な自分に言ってやりたい。

だいじょうぶ。
みんなも同じように悩んでるよー。
自分だけができていないわけじゃないんだよー、って。

先生も、四六時中子どもと二人きりでいると、誰でも追い込まれる。
定期的に子どもと距離をとることは、むしろ望ましい結果を生むとおっしゃった。

わたしは、預け先が市の託児くらいしかないが、あらためて予約をしようと思い立つ。
追い込まれると、そういう「逃げ道」の存在すら、頭に浮かんでこないのだ。


・長男には愛のメッセージを

長男については、親としてのコントロールと、押さえつけのちがいについて教えていただだいた。

また、次男にゆずってばかりで我慢の多い長男に対しては、毎日一回でいいから「あなたのこと、わかってるよ」というメッセージを送るよう言われた。

「お母さん、あなたのことちゃんと見てるよ」
「我慢してくれてるの、知ってるよ」
「あなたのことが大好きだよ」
「あなたがいてくれて、助かってるよ」

慌ただしく追い込まれる怒涛の毎日でも、そんなメッセージを送れる瞬間があれば、子どもは安心する。

先生いわく、長男は、わたしが忙しくてあわあわしていることにも、疲れてへとへとなことにも気づいてしまうような「かしこい子」なので。
きっとメッセージもちゃんと受け取ってくれるはずだと言ってくださった。

私自身も、先生のそんなアドバイスを聞きながら、「それならできそう」と思えた。
二人の時間がとれなくても、毎日笑顔で遊べなくても、このメッセージだけは必ず送ろう。
長男の喜ぶ顔が、ありありと浮かんできた。

・次男とは、ひと悶着を

一方で、自由なおとこ・次男についてだ。

最近は、散歩に付き合うのに苦労している。
車と信号が好きなので、それが見える大通りをひたすら歩かされる。

なぜか、大通りに出るまでは走るくせに、大通り自体は抱っこがいいらしい。
10キロ超えの次男を片手に、ときには長男も巻き込んで、延々と車通りを歩く作業は、もはや「散歩」ではない。

帰ろうとすると、「きえええ」とキレる。
だから、散歩はなかなか終わらない。

なんなら次男は、お腹が空いてもキレるし、テレビが消えてもキレるし、車に乗せればのけぞる。
眠たいときには、咥えた乳首をぶん回して引っ張って暴れる。
やめろ!ちぎれるだろ!

そんな次男にふりまわされる長男も不憫だし、わたしも体力が持たない。
という話をしたところ、先生にひとつアイディアを頂いた。

それは、子どもと、「ひと悶着」する時間をあえてとるというものだ。

例えば、子どもとなにかをするときに、親は「はい、あんたはこれ」と決めてしまいがちだ。
でも、それをあえて、いっしょに意見を出し合い、考える。

「ずっと散歩したい!」
「いいよ、でもずっとはできないし、どうしようかねえ」
「やだ!ずっと!」
「そうだなあ、どうしたらいいかなあ、時間を決めるのはどうかなあ」
「いっぱいがいい!」
「そうやなあ、でもご飯もできてへんし、17時はどうやろう」

とか。

もちろん、次男はまだ1歳8か月なので、こんなふうに言えない。
でも、長男ならたぶんできる。

ようは、親が「ごはんできてないから17時で帰るよ!」と言ってしまうのではなく。
子どもと一緒に「ああでもない、こうでもない」と考える時間を設けるこ都が大切、ということだった。

先生はこの時間を「ひと悶着」と言っていた。


「ひと悶着」のいいところは、子どもに「学び」があることだ。
親が決めてしまって、それに従わせるのは簡単だ。

でも、親が決めたことに従わせてばかりだと、子どもはその結論に至る過程を理解しないまま、成長していく。

どうして17時に帰らないといけないか。

ご飯の支度ができていないから。

ご飯の支度ができていなかったら、帰宅後すぐに食べられない。

だからみんなが困る。

そんな「お母さんの困りごと」と、自分自身の「散歩したい欲」を互いに主張しあって、妥協点を探っていく。
相手の意見とすり合わせて、お互いが納得できる結論を気持ちよく出す。
「ひと悶着」することによって、子どもはそういった「話し合い」の方法を学ぶことができるのだ。

今日はあなたの遊びに付き合うよ。
でも、明日はお母さんの用事に付き合ってね。

そんな約束を交わすのもいいという。 

翌日、子どもは約束をすっかり忘れて、「今日も遊びに付き合え」と自分を優先するだろう。
そういうときは、毅然とした態度で「約束したよね」と言っていい。

お母さんも、優先されていい。
お互いが対等でいい。
いつも自分を犠牲にしなくていい。

先生は、真剣にそう言ったあと、「まあ、言うのは簡単なんだけどね」と舌を出した。

そう、理想の子育てを語るのは簡単だ。
でも、実際はうまくいかないことのほうが、うんと多い。
それでいい、それで当たり前。

先生に教えていただいたプログラムを受けたわたしが目指すのは、「ほどよい育児」であり、「ほどよい養育者」。
完璧なんて目指さなくていい。
たった「3割」でいいのだ。


ひさしぶりに先生のお話を聞いたことで、すこしうつむきがちだった子育ての道が、明るく開けたような気がした。
「学び」は自分を助けてくれる。

充実した時間を過ごすことができ、軽くなった心を抱えて帰路についた。




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