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僕といふ静かで混沌とした日曜

今日はThreadsでひたすら大喜利と短歌作りに勤しんだ

さっき冷蔵庫にある食材と睨めっこをして
鶏そぼろ五目野菜チャンプルーなるものを作った
正直いまだに五目野菜がなんなのかよくわかってないし、特に調べる気もないのだけれど

久々に希死念慮が訪れた
だがそのおかげで「死にたい」の気持ち自体、脳の言語野を通る手前では衝動的な気持ちの発露に過ぎないことを知る
恐らく色々なところで書かれていることだろうが言語野で「消えたい」や「辛い」にきっと変換可能な気持ちの塊だ

しかし、それらの言語表現ではなく
もっと正確に脳内の実況中継を聞きたい
例えば、今シナプスからノルアドレナリンの分泌量が多いのに対し、セロトニンの分泌が抑えられている為、「気分」や「気持ち」には〇〇のようなイメージが投影され…云々

そうすれば、「死にたい」ではなく
俯瞰して自身の中で起きている現象を掴み
コントロールできるのではないか?

そんなことを考えたと思ったら
途端に思考実験が始まり、
例えば副作用のない麻薬(この時点の矛盾は一旦放置)があったとして
その薬物を摂取し続けた人間、つまり快楽漬けで、その薬物以外を必要としない人間は果たして「幸せ」なのか?
とか考えてみる

主観としては、ずっと快楽の中にいるから本人にとっては「幸せ」なのかもしれないが、
社会から見たその人物は果たして幸せなのか?

と、すると人間の幸福とは、半分は社会が定義するものなのか?本当に?
とか

色々頭が煩いのである

そんな僕といふ人間の日曜日の有り様といったら君、とてもとても混沌としていて生きた心地がしたもんじゃあないよ
極楽にでも逝ったような夢見心地なのさぁ

うぅ、寒い

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