特別支援教育の現在地 みんなでやるは、みんなやらない
ご時世柄、「役が人を作る」発想は流行らないのだと痛感。
みんなでやるというお題目
今の教育現場は誰の発想も責任を持たないことのよるプレッシャーからの解放が教員にとって最大の助け舟になると考えられているようだ。
みんなでやれば、3人よれば、、、確かに美しい。
不安は払拭されるのかもしれない。
実は教育現場、とりわけ教員はみんなでやってうまくいくことはない。
簡単に言えば、なあなあ。
シビアさにかけて、ブルシットジョブでお茶を濁すから。
そもそもシビアな人間はパワハラだと言われちゃう。
流行りのチーム担任制や校務分掌にしたって教員の方を楽にしたって教育の結果や効率に悪影響を及ぼすことを無視すれば、結局教員の首を絞めることに返ってくる。
教員の仕事の結果や効率というのは決まった単位では測れないから、なんとでも詐称しようがある。
効果を検証する組織があるわけでもない。アンケートや調査は設計上の構造をいじくれば、いくらでも都合の良い結果を導くことができる。
みんなでやるは、みんなやらない。
インクルーシブという名の放置プレー?
インクルーシブを教育現場で行うことの難しさは、どこまでの関係性を教員が介入するのかということだ。それは実際特別支援教育でもあまり変わらない。
この2つの区別方法を特別支援教育は対象児童個人の能力向上に注力し、インクルーシブはみんなで育つことに注力するというニュアンスで説明している。
これは分けているようで同じことを言っている。少なくと教員にとっては。分けられているようで分けられていない。
人間の関係性は目に見えない。そこが分けられると言うならば授業で子どもが知識を獲得したのは自分だけの成果か他の子も含めた成果かを明確に分けられるはずである。実際問題、分けられないし分ける必要もない。
もうひとつ、どちらの方が教員の介入が多くなるのかという話がある。
教員の介入の方法次第によって、子どもの側から見て可視的か不可視的かは変わってくる。どちらが良いかという話ではなく、この場合の問題は教員側が状況によって可視不可視をコントロールできるかどうか、それを考えて選択できるかどうかであるのだが。
おそらく特別支援教育の場合は可視的で、インクルーシブの場合は不可視的が一般的な回答になるのではないかと思う。よって特別支援教育の方が介入が多く見えるはずである。
しかしである。学級担任にとってクラス内で子どもが一人浮いちゃうことは非常によろしくないはずである。それがたとえその子の能力開発のためであってもである。同調性の話をしているのではない。つながりの話をしている。今の学校教育で行われている特別支援教育はインクルーシブ寄りの取り組みにしたってこの辺りの関係性、これまでの集団づくりの発想からは非常に乖離せざるを得なくなっている。
介入の強弱の話からすれば、特別支援教育にせよインクルーシブにせよ、対象児童をクラスの中の一員としてかけがえのない個人にしているために教員は最大限の介入を行わなければならないと思っている。
特別支援教育における教員の介入には強弱・可視不可視に関係なくコントロール可能なメリットデメリットがある。
ここを真摯に考えれば、保護者の想いを忖度すればインクルーシブ教育は見え方としては放置プレーになってしまうのである。
だから日本は特別支援教育を選択したとも言える。
しかしやってるフリは所詮フリでしかない。
ドラスティックにみて両者に違いがないなら結果は同じ。
実質的にはどちらを選択したところで関係性の放置プレーであることには変わりないわけでしょ。
というわけでみんなでやるは、みんなやらないという着地点に集約されました。
続きは明日。
以上朝活でした。
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