子どものペースを尊重する教育

個別最適化がよく言われるように
不登校特例校としての高等学校や中学校で
1993年ごろから始まった単位制高校という枠組みで

一斉授業の中で
一斉授業の外で

子ども個々のペースを尊重する学習が取り入れられています。

私が教育や保育にたずさったこの30年ほどの間に
紆余曲折がありました。
奈良教育大学附属小学校のような問題
高等学校の未履修問題
中学校にも未履修問題は起こっています。

何をどう学ぶか

 学習指導要領の存在をどう考えるかということになってきます。
 高等学校にとってはある意味ハードルの低い話になってきます。
 高等学校は先に挙げた未履修問題によってなかなかのダメージを受けてきました。
 また義務教育ではないため、受験者が集まらなければたとえ公立といえども廃業の危機にさらされます。
 そうなってしまえば、企業と同じ事情で尖った方向に進まざるを得ません。
 特化した学力、スポーツ、文化的取り組み、もしくは特徴的な取り組み、いわゆる自由な校風です。お定まりの高校野球特化型学校や箱根駅伝出場校みたいなもんです。

 中学校も同じような波にさらされてきました。
 受験特化にするか、部活動で有名になるかの二択です。

 今、日本では何をどう学ぶかに価値が置かれにくい状況にあるということです。いまだに稼げる子どもの育成を念頭に置いている訳なんですよね。何時代なんだろうと思うのですが、立身出世を引きずっています。

 そもそも稼げるかどうかは会社組織であって、個人の能力の差異ではないと思うのですが・・・

 子どもが何を学ぶかは決まっています。それが良いか悪いかは別にして。
 決まることは必要です。軽重はあれど。
 どのみち最初から子どもにやりたいことを選ばせるのは無理筋です。真似しているうちにわかることがあるからです。
 大人になっても他人から押し付けられることが学びにフィットするタイプの人間も多くいます。
 教職員の世界でもそっちの方が多い印象です。研修なんかで自由に意見交換してというとすぐに「何を話せば良いのか?どうまとめれば良いのか?」と言われます。
 それほど何をどう学ぶかという問題はお手軽ではないんですよ。

責任の所在

 委ねることの善を説く人がいます。
 子どもの性善説を説く人がいます。
 データや診断の絶対優位性を説く人がいます。

 確かに見た目は大変よろしい。
 それはそれでよいのだろう。
 しかしです。
 コロナ禍はエビデンスと分析の重要性を再度人類につきつけました。と同時に、自然科学主義とそこに対する無謬に対してはっきりとした異議を唱えました。

 ちがいは、対立です。
 対立することは悪ではない。
 多様化は一周回って元の地点に、どう対立を解決するかという議論の場に戻ってきました。相当昔にイシューになったとこです。
 個別最適化は対立の構図です。協働も対立あっての協であることを理解するところから始めなければなりません。
 そういう意味では、学校におけるさまざまの対立は今の学びが産み出していると考えることができます。
 ではそれを批判して取り除こう。これが今のメディアのやり方です。そうではなく言い方を変えて新しい取組に繋げよう。これが大学教員や教育行政のやり方です。
 現場はありもので運営、展開しながら知恵を絞ります。
「こどものためになるように。」
 この言葉は日本語の最も難しい部分です。
 こどもは主語なのか?
 こどもとはなにを表すのか?
 ためはどのレベルなのか?
 ためはこどものどの範囲までをさすのか?
 こどものためと合わさった場合の意味の変化はないのか?
 なるという価値判断は誰がするのか?
 価値判断にキジュンはあるのか?
 この短い言葉が集団にとって共通に認識されている場面を見たことがない。それは私がその言葉をはく人間に常に違和感をおぼえてしまうタチだから仕方ないのですが。
 教育現場もさして立派な共通理解があるとは言いません。問題は、ないことではなく、持てなくなってることなんですが、幸い無責任な批判にさらされ続けた教育現場はきちんとかわし方を会得してきました。
 このかわしが教育の仕事に加わったことがブラック化を決定的にしたのですが・・・

こどものためのペース

 この現状を踏まえれば子どもに自己選択を強いることの残酷さは良くわかるのではないかと思います。
 対立を回避すること、もう少し小さな葛藤を回避すること、それは間違って良い場でも間違わないを選択することを意味します。
 間違える、ミスをする、カッとなる、我を忘れる、悪気なく人を傷つける、仲間はずれにする、仲間はずれにされる、これらは経験としては回避しない方がいいもんです。理不尽な大人に出会うのもです。
 適切なケアとフォローのもとで適度なストレスがかかることが健全だからです。たぶんこの可否の判断は保護者の介入を避けたい。モチロン適度である前提でです。
 そしてさらに子どもの判断を避けたい。恐ろしく自己評価と実際がかみ合ってないからです。
 甘過ぎ辛すぎ、そもそも評価のなんたるかがわかってない。キジュンがカネとか異性とか・・・失敗するオトナの典型的なロールモデルです。
 しかも一つのことに固執しまくりです。

ペースづくりの主体

 では適切な他者が子どもの学習のペース配分をします。それなら公教育で良くない?よそ者に指摘される程ズレてはないはずです。上下2パー程度の異常値を除けば。
 結果論の世界、しかもかなり広い間口と長い射程を持ち合わせている学びという世界では前もって回避できる、もしくは回避した方がよい程確かな未来予測というのは不可能です。
 外部要因は内的な要素をもって対応する方がお互いの成長のために有益である。そう結論づける方が予測としての確度が高いのではないか。

 利益直結の人間より、一呼吸置いた他人の判断にこそ担保される信頼性を対話の中で練り上げる学習ペースづくりが良いのではないか。
 責任直結の重さを全面に押し出さない懐の深い予測の良さを試してはどうだろう?

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