教育におけるデカップリングとは

 デカップリング、流行ってますね。教員はあんまり話題にしないんですが・・・
 これまでの社会では、経済成長に比例してエネルギー消費も増えるとされて、より企業活動が活発になれば、生活が豊かで便利になります。こうしたカップリングは教育現場でも教師の労働時間が増えれば教育の質が上がるみたいな都市伝説として、しかし教員同士の相互監視作用として静かに静かに教育現場に染み込んできました。
 頑張ってると思っている奴が頑張ってないと見える教員を罵るみたいな(女性の場合は陰口)場面が日本全国で繰り広げられてきたんですね。授業下手なやつが出世するみたいな立派なカップリングです。

 デカップリングとは、これに対して一定の経済成長や便利さを維持しつつも、エネルギー消費を減らしていく、即ち両者を「切り離す」という考え方なんだそうです。
 例えば、資源の再利用・循環利用を行う、エネルギー多消費の産業構造を改める、これまでにない手法で省エネすることにより、デカップリングは可能ですと官僚は仰っているんですが、これがなかなか笑えます。
 どのグラフを見ても日本はこの30年間、このデカップリングの技術革新が全く進んでいないんですね。おそらく所得倍増計画を行った頃から日本の企業経営のメンタルはデカップリングよりその時々の経常利益を上げることしか考えていないということがデータからわかります。

 こうしたデカップリングの産業構造転換が進んでいる国の象徴としてドイツが挙げられることが最近多くなっていますが、果たしてドイツや欧州が進めてきた環境政策が正しかったのかどうかはこれから明らかになってくると思われます。
 もしかしたらガソリン自動車から電気自動車への転換というのは、環境問題と経済政策とのデカップリングの失敗作になる可能性があります。経済ニュースや怪しいYouTubeでは電気自動車の闇みたいな感じですね。中国をディスりたいだけの人もいるので見分けはつきにくいですが・・・
 そういう意味では日本のデカップリングができていない状況は逆の意味で成功になる可能性も残っているわけです。
 まあただ単に何もせずに置いてきぼりを喰らうという今までの日本型官僚制の成果をそのまま曝け出す可能性の方が大きいのではないかと私は思います。

 そもそも斎藤公平さんがいうように実際は環境問題にコミットしたような政策を打ってもドラスティックに見れば逆の結果を引き出すということはよくあることです。
 電気自動車の導入が結果二酸化炭素排出量を増やしてしまうというマテリアルフットプリントの分析方法が象徴的です。
 結局数字という分析方法はどこに重みづけを行うかによって結果が大きく変わってしまう代物であることを理解しておく必要があるということでしょう。でもそれは一度でも大規模な社会調査を行ったことのある人間なら誰もがわかっていることです。

 同じことは教育政策においても言えて、いくら文科省や教育委員会が数字で分析して政策提案したところで、重みづけ具合によっては全く逆の政策提案が起こっていることがあることはしばしば見られます。
 そもそもPISAやTIMSSの調査結果にしても一つのモノサシを差し当たって設定した枠組みに過ぎず、調査結果がGDPに直結するわけでも、幸福度に繋がるわけでもないです。とにかく一つの目安にすぎない指標だけを使って国の教育政策を全振りするというのは少なくとも教育実践に高度な先進性を持った国としては考えられない愚挙です。 

そうした前提を持った上でのデカップリングと教育という発想は、考え方として取り入れてみるというのは無意味ではないのかな?と思います。何よりブレインストーミングとしてだけ考える分には「新しさ」につながるのではないかい?

 さっきも述べたように、学校現場には妙な神話が横行しています。
 労働時間と教育技術の相関です。これに関わって言えば教育経験と教育技術の相関も根強いですね。
 相関をカップリングと言い換えれば、そこが確実にカップリングされているどうかを問うことは現場における課題解決に役立つのではないかと思われます。しかし、やられてないんですよね。
 もちろんこの仕事を担うべきなのは、私がいつもいう文科省(もちろん外郭団体も含みます)と教育委員会、大学教員です。
 しかしこうしたものに似た社会調査は行われてはいるものの調査設計の段階でうまくいってないものばかりなんですよ。
 調査結果はどうあれ結果なんで尊重すべきだと個人的には思いますが、それ以前に教育技術のような測定方法があまりにも恣意的なんですよね。それってあなたの感想ですよねレベルの設計で話が進みます。そもそも教員に感情や感覚のアンケートとってもあんまり意味ないと思うんですよね。
 
 よく現場にくるのがICT機器をどれぐらい使いこなせるかというアンケート調査があるんですが、(学期に1回100問ぐらいの質問が降ってくるんです)多分半分以上の教員が問題文を咀嚼できていません。よく若手がICT得意とか言いますが今の若手は60近い爺さんよりICTに関する知識や能力、リテラシーないですよ。そもそもパソコンを使ったことがない子も結構います。基本小学校教員は全員文系なので、一般的なレベルをさらに下回っています。ゆえにこのアンケートの数字自体を分析することに大きな意味はありません。
 データの信頼性がない、忙しくて答えてくれない、ICT使えないと思われたくないなど事実と感情が入り混じりすぎるなど、社会調査としてのアンケートの性格を踏まえても結果に何の意味があるのかよくわからなくなってしまうんですよね。しかもこの調査結構な費用がかかってるんですよ。アンケート回答者への謝礼もないのに・・・

 それましたが、教育調査という分野はあまりにも恣意的なデータに基づいているのでなかなか信頼性が得られず有効なエビデンスになりません。金銭的データが信頼性が高いゆえによく家庭の経済状況と学力の相関がエビデンスとして使われますが、実際それは自明のことでありデータを使って証明するほどのことではありません。しかも本当に私が業績的に優秀だと思う研究者の生い立ちをみてみれば、皆そこまで金銭的に裕福なわけでもないです。
 元総理大臣だった大金持ちのご子息は、スタンフォード大でPh.Dをとっているんですが、その人の論文は文系の私が読んでもちょっとどうなんだろうという代物です。(どっかの雑誌で絶賛している人がいたので読んでみた次第です)もちろん例外はあれど、信頼性が若干でも揺らいでしまうことは教育現場にとっては致命的で、都合の悪いことは目に入れたくない教員に対してなんとか取り組みしたいと思っても自説を説得力を持って押し込むことがしにくくなってしまいます。

 私としては、まず労働時間と教育効果の相関を公然とデカップリングできる信頼性の高いデータが欲しい。これさえあれば労働時間の短縮ができますし、同時に教育効果の向上を狙うことができます。デカップリングシステムを考えることでより労働時間を下げながら雪だるま式に教育効果の向上を進めることができるようになります。
 しかし現状、問題なのは実はICTの利活用というのは教職員の労働時間を延ばしているというデータがあるんですよね。
 しかも私が持つ実例として教育現場にDXを持ち込んだ結果、単純に仕事の工程が増えたという事実があるんです。加えてその実例は丸2年間経た今も改善されず、問題であることを全員が同意しているにもかかわらず固定するという事実を抱えているんです。
 少なくと私は教育現場のICT利活用とDXには積極的な立場を取りたいと思っているんですが、このザマを見れば他人にお勧めすることは控えたいとしか考えられません。
 各種メディアでICTやDXを撒き散らしてビジネスチャンスをうかがったり、俺スゲェーをやったりしている教員は意図的にこの部分に目をつぶっているとしか思えません。そしてありもしない夢物語を語って仲間の屍を踏み越えていこうとしているように見えます。
 内田洋行やチエル、エデュコム、SKY、富士ソフト、教育システム、ドワンゴ、レントランス、リクルート、ジャストシステムがICT素人を操って公教育参入して支援ビジネスを敢行しながらこうした非常識教員を取り込んで宣伝を行なっている様子は教科書制作出版会社が選定に影響を及ぼせる管理職に非常識な接待を行なってきた様とピッタリ重なります。

 さりとて私にとってはデカップリングにも、ICTの技術にもその他の教育に関わる優秀な側面については、その評価がいささかも低下するものではありません。

ずいぶん長くなってしまいましたが、私は
勤務時間と教育効果
経験年数と教育効果
子どもの感覚と教育効果
学校感情と教育効果
人柄と教育人事評価
などのデカップリングをシステマティックに進めたいと思っているし、

教育効果と教員評価
教員の努力と教員評価
子どもの努力と進路保証
家族のサポートと子どもの学力
学校・地域の伝統と子どもの学力
などのカップリングを明らかにしたいと思っています。

 相関していることが重要なのではなく、相関していることのエビデンスに関する研究が多方面から多様性を持って進んでいることが重要なんだと思うし、その上でデカップリングの必要な領域が明らかにされデカップリングがシステム上の正当性を持ってエビデンスに裏打ちされた上で子どもたちと教員たちの幸せに直結していくことが教育におけるデカップリングの意味なんだろうと思います。

 教育という研究領域は本当に広い間口を持っているし、やりようによっては結論をなんとでも持っていける不確かさを持っています。
 でも実は国家戦略上、人間の幸せ、経済の循環、人類の未来、テクノロージーの発展、さまざまな社会問題 数え上げることが不可能なくらいのロジックたちの基盤にあるモノなのだろうということをこうして言語化することで今更ながら痛感します。

 もう少し日本も教育を研究することに真面目になってもいいのではないかと思います。そんなことを考えただけのゴールデンウィークの真ん中でした。

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