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宗教や信仰についての雑記 #20

◯弱さへの痛み

今回は前回の続きですが、親鸞聖人が、自分は父母の供養のために念仏を唱えたことはない、と語ったもう一つの理由は(こちらのほうが主な理由なのですが)、今の自分には人々を救う力はないので、念仏を唱えて仏と成って、それから人々を救うためだからということだそうです。

私は現代の社会に生まれ育った者なので、極楽浄土や阿弥陀仏を言葉通りに信じることなどできませんし、死後の世界があるかどうかもわからないのですが、少なくとも今の自分には人を救う力などない、という点は同じです。

そんな自分の力の限界や弱さの自覚が、個を超越した大いなるものへの感覚に、深く関わっているように思えます。
新約聖書でもパウロが、キリストの力は弱さの中でこそ十分に発揮される、と語っています。

こうなりたい、こうありたいと願いながらも、己の弱さや無力さから、思うままにならない苦しみや哀しみに苛まれるとき、共に嘆き悲しむ同伴者としての遍在する「実在」が立ち現れるのかもしれません。
おそらくそれは、そんな己の弱さへの痛みを取り除いてあげたいという、純粋な「願い」そのものなのでしょう。
そして「願い」は願われるものなくしてはあり得ません。
「弱さの中でこそ十分に発揮される」とは、そのことを表しているような気がします。

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