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お金のチカラ~ある銀行員の話~:掌編

 
 とある都内のホテルで開催された自己啓発セミナーでのことである。
 
 武藤は、友人の誘いで、このセミナーに参加していた。まったく乗り気ではなかったのだが、人数合わせということで何とか頼む、と友人があまりにもしつこいので、仕方なく参加したのであった。
 
 セミナーのあと、懇親会というものが開かれ、立食パーティーの形式で参加者同士で交流するという場があった。

 武藤は、こういった交流の場が苦手であった。所在がないというように、一人で立て続けに酒をあおっていた。しばらくすると、武藤の方に近付いてくる者がいて、「お酒好きなんですか?」とニヤニヤしながら武藤に声をかけてくる。

 男は少し体をふらつかせていて、酔っているようであった。きくと男も一人で来ているのだといい、名を江崎といった。
 
 江崎は三十代とのことで、武藤とは十歳以上も歳が離れていた。身長は一八〇くらいはありそうであった。学生時代からずっとスポーツをやっていたらしく、がっしりとした体型である。

 大手金融機関に勤めており、若くして都内のエリアで支店長を任されている。いかにもエリートという感じであったが、鼻につく感じはまったくなかった。

 江崎はブッフェテーブルの料理に手を伸ばし、口に入れていた。

「武藤さんはどうしてこのセミナーに参加したんです?」
 
 江崎は咀嚼しながら武藤に訊ねる。

「うーん、正直わからないんですよね。ただまあ、何か新しい経験ができればと思って」

 武藤は辺り触りのない返答をする。年上なんだから敬語はやめてくださいと江崎に注意されたのだが、昔からの癖で、よほど打ち解けた相手でない限りどうしても敬語になってしまう。

「ぼくはちょっと今の自分の人生を見つめ直したくて。いい機会だと思って、即決しましたよ。仕事をしている自分は、本当の自分じゃない、どこか演じているんだ、誤魔化しているところがあるんだってことに改めて気付かされますよね」

 武藤はそうですね、と相手の調子に合わせて相槌を打った。

 江崎の話を聞くことで、武藤は改めてこのセミナーに参加している人間の動機というものを再認識した。

 江崎にはどこか生きていること自体に疲れているような感じが見受けられた。こういう若者が世の中には溢れている。だからこそ、自己啓発といった類のセミナーへの需要はなくならないのだろう。

 武藤もまたその参加者の一人だが、武藤は心の底からそれを望んでいるというわけではなく、友人の依頼で仕方なく参加しているだけである。

 江崎は少し遠い目をしながら、滔々と語り出すのであった。

「武藤さん、ぼくは日頃から何千万、何億というお金が動いているのを目の当たりにしています。もちろんほとんどが数字上のものでしかないですが、実際にもとんでもない量の紙幣を出し入れしています。どういうことが起こるかというと、麻痺してくるんですよね」

「ああ、お金の価値がわからなくなるって聞きますよね」

「お金がただの物に思えてしまうというのはよくあるのですが、こうもお金の動きに合わせた仕事をしていると、生きているのは人間じゃなくて、お金の方なんじゃないかって思えてくるんですよ」

 そうですか、と武藤が頷く。

 江崎は続ける。

「そうか、この世界の主役ってお金なんだって。ぼくらは、お金のために生かされているだけなんじゃないかってね。そう思えてきてしまうんです。よく人間はお金ですべてのことを支配するっていうでしょう? 違うんです。ぼくらがお金に支配されているんです」

「お金が支配?」

「そう、富裕層とか権力者にしたって、彼ら自身に力があるわけではないんですよ。お金を持っている人はそれを自分の力だと勘違いしがちですけどね。お金自身に力があり、人間を媒介してその力を発揮しているだけなんです」

 江崎の口から言葉が滑り出てくる。

「お金ではなく、人が媒介物ですか? そんな風に考えたことはなかったですね」

「ええ、じつは主従関係は反対なのです」

 江崎は武藤の方を振り返ると、力強く頷いた。

「でも、お金を持つ者と持てない者がいる。お金を持つ者は、その人に能力があるからこそ、お金を集められるんじゃないですかね。そしてその集まった分だけのお金が、他のことに行使できる力になる」

 武藤は自分が思ったことを口にしてみる。

「そう思うでしょう? でも、よくいう格差とか勝者と敗者の構造って、人の能力がそうさせているわけではないんです。お金自体にそういう構造を作ってしまう力がある。だからお金からしてみれば所有者なんて誰でもいいわけですよ。お金は集まりやすいところに集まり、金を持った人間の手元でより増えていく。これもお金自体がそういうものだからなんです」

「なんだか、ウイルスみたいな・・・」

「そう、お金はまさに生物ですよ。宿主を変えて移動するだけです。所有する人間は変わっていきますが、お金自体の強さは絶対です。ぼくら銀行員というのは、そんなお金の移動を監視している、番犬みたいなものです」

「でも、お金というものに絶対的な価値はないはずですよね? ただの紙切れといえば紙切れなわけだから」

 武藤は少しだけ反論を試みる。

「そこですよね、お金の不思議なところって。武藤さんが言うように、ただそれだけでは価値はない。価値はないが価値を持ってしまう。その価値を信じる人間がいるからですよ。そう信じ込ませてしまう力がお金にはある。信じることによって支えられているシステム、それがぼくらの社会なんじゃないでしょうか」

「なるほど」

 武藤は静かに頷く。

「武藤さん、そのお金で実現する人の幸福ってなんなんでしょうね。いい家に住んだり、美味しいものを食べたり、高級そうなものを身につけたり、投資にまわしたり。それもこれも、お金が人間に見せている幻想にすぎないのに、人間はそういった幻想の中に幸福を求めようとする。幻想の中の幻想とでもいいましょうか。そんなものを突き詰めた先に、一体何があるんでしょうか」

「それが、私たちを取り巻く現実ってやつでしょう」

「そうなんです。そういう社会になってしまっているということが問題なのです。これって、私たちが主体的に生きている社会ではなく、お金という価値観に支配された社会に従って生きているという――」 

「われわれはお金に幻想を見させられている。それはなかなかユニークな視点ですね」

 武藤が感心しながら相槌を打つ。

「私たちがお金に幻想を見させられているって、なんだか映画の『マトリックス』みたいでしょう? あれはコンピューターが人間に夢を見させているという話でしたけど、私たちの現実も、既にそうなっているようなもんじゃないでしょうかね。お金は、まさに物でありながら、私たちの主人なのですから」

「この夢から抜け出せる方法はないんですかね」

「どうでしょうねえ。お金のない世界は、今の私たちには想像もつきません。キャッシュレスとかにしたって意味はないですよ。お金はなんだっていいんですから。石でも貝でも、牛乳瓶の蓋でも、煙草でも。何にだってとってかわることができます。<やつ>は何にだって化けられるんです。それこそ実体のない数字にだってなる。貨幣なき世界、それもまた夢物語でしかないんだから、この世界は袋小路ですね。そう思いませんか、武藤さん」

 武藤は押し黙ってしまった。

「せいぜい、こう言い続けるしかありませんよ。『起きろ、ネオ』ってね」
 
 江崎はそう言うと何がおかしいのか、一人で腹を抱えて笑うのであった。それからまた、テーブルの料理を口に含むと、武藤とはそれ以上目も合わさずにどこかへと立ち去った。

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