じいじ 保育士を目指す! 年賀状の定年
今年の年賀状は
年賀状の締切(元旦配達の)が迫る中、今年こそは年賀状を終わらせてと思いながらギリギリまで書かない年末の行事。
今年は保育士を目指す第一歩が歩め、第二の職業人生(というには短いだろうけど)の方向が見え始めた中でこの年賀状は常々辞めようと考えていたので、今年こそは終止符を打とうと思った。
定年前の年にとも思ったが来年は郵便料金が上がるらしいし、郵政制度が民営化されてその仕組みがそもそも公共財だと思っていた(現に民営化の最先端の様なアメリカさえ、国営である。)モノを郵貯保険の外資参入が目的で解体してしまった今は郵政制度に格段の思いはない。
郵便局とのお付き合いは、高校生の1年生の時が初めてで最後のアルバイトが郵便配達だった。高校へのアルバイト届出も受けがいい(すんなり許可が出る)。
アルバイトも、この郵便配達が生涯で最初で最後だ。他のアルバイトはした事もない。
郵便配達は、自転車いっぱいの郵便物を漕ぎながら配達先に向かう日課だった。何故か、郵便ポストからの集荷も託された。
初めて、担当区域の郵便配達を、郵便配達の職員が教えてくれた。お昼は、蕎麦屋さんでカツ丼をご馳走になった記憶がある(刑事ドラマの取り調べで容疑者がカツ丼をご馳走になって、取り調べ官に自白するコントみたいだけど。。。)。知らない人と初めて外食した記憶だ。
年が明けて、ポストの集荷をする時は次から次に年賀状を渡されてキリがないのを覚えている。
話は逸れるが、日時記録郵便(配達時間を記録して届ける郵便物。裁判所からの郵便とかだった)をやった時はちょっと緊張した。書留も任されて、現金書留は特に注意する様に言われた。これも緊張した。
高校1年高校2年とアルバイトした時は、郵政B(外務)で是非うちにとリクルートされたが、進学希望なので断った。郵便配達が郵政省で公務員だった時代の話だ。
年賀状というと、そういう配達する側の記憶が甦る。
でも、もっと古い記憶はプリントゴッコというスクリーン印刷機で印刷する事だった。
スクリーン原板に印刷図案を書いて、原板をつくって(フラッシュの様な一回きりの電球を光らせてスクリーン原板に図版を焼き付けて)インクを使って年賀状にカラー印刷(多色刷り)ができるモノだった。
それは版画のちょっと洒落たモノでとっても流行った記憶がある。
今では、カラーインクジェットのプリンタで一瞬(と言っても結構手間がかかる)で出来上がる。
そんな風物詩も今年で終わりにする。
きっと小学生から始めた習慣だから50年以上続けた事になる。充分、定年の年だ。
さて、今日はこの辺で。
アメリカの郵便
プリントゴッコ
郵政外務
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