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ヨーロッパでの差別体験

(差別的体験へのトラウマがある人はご注意ください。)


先日Twitterを見ていると、在独日本人界隈でこのWeltというドイツの全国放送への批判が殺到していた。



カタールW杯でのドイツの敗戦を報じるニュースで、Jimmy Hartwig氏がアジア人に対する差別的な言葉である、「Ching, Chang Chong」という表現を使ったことに対する批判だった。

正直この言葉が差別的であるというのを知ったのは、恥ずかしながら比較的最近のことだった。

ドイツではじゃんけんの掛け声でこの言葉を使う場合もあるのだが、自分も無意識にそれを使っていたことすらある。


ドイツという国は一番好きな国だけれど、ドイツで他者による差別的言動に傷つけられた経験は山ほどある。

日本である程度恵まれた環境で育てられ、ほとんどのカテゴリーにおいてマジョリティに属する、いわばずっとぬるま湯に浸かってきた自分にとっては、その経験は今もなお心に残っている。

しかもドイツが好きであるからこそ、何か起きても自分に非があったのではないか、相手もそんな意図はなかったのではないだろうかと、被害を受ける側にいるにも関わらず他者を擁護してしまうことすらある。

むしろそうすることが自分を擁護することにつながるからだ。


ただ残念ながらアジア人への差別は日常に溢れている。

これをナチスやドイツ人の国民性などといったものと結びつける言説には反対するが、それでもドイツには人権に重きを置く人と同じくらい、無知からアジア人を差別する人は多く存在していると思ってしまう。

今回は特に記憶に残っている3つの経験について書く。


1つ目は留学中に参加していた地域のサッカークラブの練習でのことだった。

どういう流れだったのかはもう覚えていないが、チーム内で試合をしている時なぜか僕がボールを持って抜け出し、キーパーと1対1になる場面があった。

その時微かに、しかしはっきりと「あいつは日本人だから決められねえよ」という呟きが後ろから聞こえた。

まだ15歳ほどだった自分には、その言葉の孕む社会的構造の歪みを理解することができなかった。

結局その場面でゴールを決めることができたから、重く捉えていなかったのかもしれない。

ただ、それでもその後の人生でサッカーをプレーする気が失せてきたのは、今思えばこの言葉の影響だとしか思えない。

サッカーをしっかりとプレーしていたのは留学中が最後で、その後は日々の生活の忙しさを言い訳に、サッカー生活から離れていった。


2つ目は大学在学中に行っていた、ドイツでの1ヶ月ほどのインターンの最中だった。

ちょうどコロナが蔓延し始める2020年初め、僕は東ドイツの都市で難民を含む外国人の就職支援を行う組織でインターンをしていた。

ヨーロッパで少しずつ感染者が確認され始めた頃、他の会社に訪問しにいった時、ドイツ人の同僚と既に握手した相手方が、自分の顔を見るなり「コローナ!握手しない方がいいね」と笑みを浮かべながら握手を拒んできた。

それを言われた時には呆然としていたこともあって何も考えられなかったが、少し時間が経つと怒りが込み上げてきた。

それを言ってきた相手だけにではなく、もはやその発言に対して何をするもなくスルーした同僚にすら腹が立った。

自分がその時ドイツに渡航してきたのはヨーロッパでコロナ感染者が確認されるずっと前だったのだから、それを知る同僚が擁護することもできたはずだ。

社会が危機に陥った時、真っ先に切り捨てられ得るのは弱者なのだと、身をもって思い知ったのだった。


3つ目はつい最近ポルトガルに旅行していた時のことだった。

ポルトガル第二の都市であるポルトで、僕はポルトガルのファストフード店にビファナという肉を挟んだパンを食べにきていた。(ビファナはとっても美味しい)

席に座っているときに突然くしゃみが出そうになった僕は、咄嗟に下を向いたものの腕で口を抑えることができなかった。

それを見た隣のドイツ人の家族、というかその母親が「アジア人は衛生観念がこんなだからコロナが広まるんだよ」と、ど直球の差別的発言を食らった。

それだけに収まらず、あからさまに座る位置を自分から遠ざけてきた。

挙句のはてに「アジア人の中では日本人はマシな奴らなんだけどね」と、なぜか自分が日本人ではない前提で追い打ちをかけてきた。

僕が心底ムカついたのは主に3点だ。

1つに、アジア人には差別をして良いかのような、正確にいうとアジア人への固定観念は偏見や差別に当てはまらない、というような価値観を持っていること。

仮にくしゃみをしたのがアジア人である僕ではなく白人だったとしたら、間違いなく彼女はそんな発言をしなかっただろう。

2つ目に、アジア人だからドイツ語なんてわかるはずがないという前提を持っていたこと。

ドイツ語圏にいる時でも、働けるレベルのドイツ語力を持っていても、この外見のせいでドイツ語ができないと思われることはしばしばある。

自分は今ドイツ国籍を持っていないから、まだこの偏見からのダメージは少ないが、仮にドイツのパスポートを持っていたら、外見で判断される苦しみはもっと重く刺さっていると思う。

海外にいると周囲を気にせず日本語で自由に話せるのは楽しいことだけど、他者を貶める発言だけはしてはいけないと、自戒を込めて思う。

3つ目に、「アジア人の中で日本人はマシ」と、人種・国籍で人のレベルを評価していること。

日本人について何も知らないのに、なぜ評価をつけられる立場にあると錯覚しているのだろう。
白人による支配の歴史、オリエンタリズム、文化相対主義などについて教えてあげたいレベルだ。

衛生観念のことをいうなら、パンを机に置いたり、学校のご飯を食べる机に平気で土足で乗るあなた方の方がどうかと思いますが。などと後々イラついたが、差別に差別・偏見で対抗するのはまた違うと思っている。(少なくとも実害がそこまでない場合の話だが)

結局は、発せられた言動に言い返す度胸もなく、ドイツ語のわからないアジア人として平静を装うしかなかった。


個人的には、何かを差別と糾弾するよりも、それは差別ではなかったと自分を納得させることの方が精神的には楽である。

差別を受けたと自分の中で認めると、その受けたヘイトがどこかに向かってしまう怖さを感じてしまうし、差別体験について再考することによってさらに精神的なダメージを負ってしまうからだ。

ただ、差別を見過ごすことは寛容な社会を育てる方向には全く作用しないし、さらなるダメージを受ける可能性を放置することにもつながる。

少なくとも僕は自分の差別経験に対してはそう向き合いたいと思う。

(念のため明記しておくと、この姿勢は「自分」が差別とどう向き合いたいかという話であって、全ての差別・ハラスメントなどの被害者がそうあるべきという話ではないです。まずは被害者本人のメンタル面が一番大切だから、その人なりの方法で自分の心を守るのが最優先だと思います。)


こんな経験がいっぱいあるからこそ、「ヨーロッパに住めるなんて羨ましい」という言葉には内心苦言を呈してしまう自分がいる。

日本人的な見た目の自分にとって、外見的にマジョリティに属していて、自分のような存在むけに社会が設計されている日本が圧倒的に住みやすく、外見的マイノリティとして異国で生きるストレスはとても気持ちの良いものとは言えない。

しかも留学中はホストファミリーと暮らしていたし、今は一人で暮らしているから、家に帰ったところで人種的な帰属への安心感を得ることができない。

(大前提として異なる社会で暮らす経験は、僕にとってはもたらすものが多かったから、体験できる環境があって、なおかつそれを好意的に捉えているのなら、一度体験してみることを勧めるけれど)


日本社会には日本社会なりの理不尽があるけれど、海外の社会にもその場所なりの理不尽が多く存在している。

もちろん海外移住という選択肢を検討できる時点で自分は恵まれている。

ただ、日本社会が嫌いで、その社会で生きるとこで不公平な社会システムに構造的に加担することになるのだから、自分は海外に行きたいのだ、という理由で海外に行くのはまだ違うのかなと思う。(これも「自分」のポリシー・考え方に過ぎません)



僕は弱者からの搾取・弱者の存在の無視から成り立つ日本社会の構造が嫌いで嫌いで仕方がないからこそ、海外への気持ちが強い。

ただそれは、社会を構成する側になるという責任から逃げているだけなのかもしれない。

もちろん全ての逃げが悪いわけではないのだけれど。

これもまたひとつの逃げではある。

早く自分なりに納得のいく社会との向き合い方を見つけたい。


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