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クングスレーデンの追憶

きっと情報があふれるような世の中で生きているぼくたちは、そんな世界が存在していることも忘れてしまっているのでしょうね。だからこんな場所に突然放り出されると、一体どうしていいのかうろたえてしまうのかもしれません。けれどもしばらくそこでじっとしていると、情報がきわめて少ない世界が持つ豊かさを少しずつ取り戻していきます。それはひとつの力というか、ぼくたちが忘れてしまっていた想像力のようなものです。

星野道夫『旅をする木』

クングスレーデンの一部であるアービスコ・ニッカルオクタ間を歩いてから、もう1ヶ月以上の時が過ぎた。
それでもいまだに、毎日のように極北の地で過ごした7日間のことを考えてしまう。
きっとこれから毎年夏を迎えると、いつもあの広大な緑の世界を思い出すのだと思う。


クングスレーデンはスウェーデン北部のアービスコを北の始点とする、約400キロに及ぶロングトレイルである。
北欧で最も知名度のあるこのトレイルは、約150年間前から人々の足跡を残しながら、今なお多くのハイカーに愛され続けている。
クングスレーデンの存在は、たまたま北欧のハイキングコースを調べているときに知った。
いろんな先人たちの体験記を読んで、実際に自分の目で、自分の足で、自分の体で、この「王様の散歩道」の雰囲気を味わってみたくなった。

北へ向かう1ヶ月くらい前から、正直仕事に手がつかなくなっていた。
今までの人生で一番「死」に近い環境に向かうのだと思うと、目の前の書類の数字なんてどうでもよくなっていた。
毎日のように仕事終わりにアウトドアショップに通い、今の自分にはどんなギアが足りないのか、試行錯誤しながらさまざまなものを買い足した。
Youtubeの動画や英語・ドイツ語のサイトも隈なく見ながら、どんな自然環境が想定されうるのか、必死に情報収集をし続けた。
ロングトレイルを歩いているときは、バックパックに入っているものが自分の衣食住の全てになる。
生き延びるために必要な最低限のものはなくてはならないが、逆に不必要なものを入れすぎると、肩にかかる余分な重量がじわじわと体力を奪っていく。
この塩梅は、実際に山の中で生活してみないと掴みにくい。

直前の週末には最後の調整として、2000メートルほどのスイス東部の山で野営した。
麓の村から1000メートル登ってそこで夜を過ごし、翌日また下界に戻るという単純なコースだったけれど、明らかに持っていった水が足りず軽い脱水症状になった。
登りつつも今引き返すべきか数分ごとに自問自答し続け、気づいたら目的地まで来れていた。
このまま誰にも見つからないままスイスの山で死ぬのではないかと思いながら、僕の背中を伝った冷や汗の感覚は、昨日のことのようにまだ覚えている。
そもそも人生で2回しかテント泊をしたことがない自分が山で1週間を過ごそうと思うなんて、自分は気が狂っているのではないかと本気で思った。
怖くて怖くて仕方がなかった。

恐怖と緊張に苛まれながらも、無情にも旅立ちの日は近づいていった。
でも当日になると、不思議と今までの不安がどこかへ消えていって、これからまたラップランドに行けるのだとの喜びで胸が高鳴った。
スウェーデン北部の玄関口となる都市、キルナでガス缶や紙地図調達などの最後の準備を終え、トレイルの始点であるアービスコへ向かう電車に飛び乗った。


そこから僕は、7日間かけて110キロも極北の緑の中を歩き続けた。
電波もほとんどない中、そこにある自然と自分自身と向き合い続けた。
今振り返るとあの7日間はずっと夢を見ていたのではないかと思うほどに、非日常の世界だった。

北欧における人と自然との関係性で最も重要な概念は自然享受権である。
簡単に説明すれば、自然に危害を与えない限りその環境の享受を広く認めるという古くからの慣習だ。
そのため、クングスレーデンでも国立公園を除いて基本的にどこでもテントを設置できるようになっている。
一年のうち数ヶ月は夜がなく、数ヶ月は昼がないという厳しい自然環境だからこそ、自然は人の手中に収められるものではなく、逆にそこから得られる恵みを人類の共有財産として尊重しようという考えに至ったのだと思う。
そもそもこんなに広大な自然を前にして、自分がこの大地を所有したいなんて微塵も思えなかった。
所有するにはあまりにもスケールが大きすぎるのだから。

一日中日の沈まない白夜の中を歩くのはとても新鮮な感覚だった。
視界には緑か青か白しかなくて、天の気分で雨が降ったり晴れ間が顔を出したりする。
それでも世界が闇に包まれることはない。
僕が晴れて欲しいと思っても毎日雨は降り、僕が暖かくなって欲しいと思っても気温は下がり続ける。
自分の意思が全く影響力を持たない、この単純化された世界を歩き通して、思ったより世界は複雑ではないのかもしれないとも思った。
そもそもこの社会や人生を全て自分でコントロールできるなんて思うことすら、的外れなことだったのかもしれない。

ラップランドでは、夏でも20度に到達することはほとんどない。
もちろん山の夜は毎日5度近くまで冷え込むのが日常だ。
そんな環境で雨に打たれれば、すぐさま低体温症になって行動不能になる。
でもそんな厳しい世界だからこそ、そこにある生はしなやかで美しかった。

山に入って5日目、僕は雨の中ひたすら続く直線の道を歩いていた。
20キロ弱のザックの乗った肩は悲鳴をあげ、気温約10度の中雨に打たれ続けた体はもう歩く力をなくしかけていた。
さらには、なぜか手元のGPSアプリで次の小屋の位置がわからず、小高い丘を越える度、一向に目的地が見えないことに鬱憤が溜まり、僕の精神は限界に達しようとしていた。
すると突然目の前の道に数匹のトナカイが現れた。
一瞬疲れから幻覚を見ているのかと思ったが、確実にトナカイたちは僕の目の前に立っていた。
僕が前に進むと、彼らも僕から遠ざかっていく。
彼らを追いかけながら小高い丘を越えると、そこには100匹以上のトナカイの群れが佇んでいた。
僕というひとりの人間と、100匹以上のトナカイしかいない世界。
彼らの気高くしなやかな姿は、疲れを忘れさせるのには十分だった。
このまま雨の中で死んでしまうのではないかという不安も、圧倒的に力強い生を前にどこかへ消えていった。

すっかり文明での生活に戻ってしまった今となっては、僕の記憶と写真のデータ以外、僕があの原始から変わらない世界にいたという痕跡はない。
それでも、一生忘れないと自信を持って言い切れるほど、僕の記憶の中にあの日々が深く刻み込まれている。
これからどこか人生で立ち止まった時も、記憶の中で立ち返る場所として、僕を支え続けてくれるだろう。
今の僕は、忘れていた大切な何かを取り戻したような、そんな充足感に満ち溢れている。

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