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なぜ大学の入試科目に『英語』があるのか ~学校教育の本質とは~

1   はじめに

私が「英語」を勉強し始めたのは中学校に入ってからです。現在は小学校から「英語」の勉強をしているそうですが、私が小学生の頃は、教育テレビで放送していた「えいごであそぼ」や「セサミストリート」で見聞きした簡単な挨拶を知っている程度でした。

中学校の「英語」の授業では、毎回、昔の洋楽を歌っていました(曲が毎月変わりました)。
音楽にあまり興味のない私がビートルズやカーペンターズ等の曲を歌えるのは、中学校の「英語」の先生のおかげです。
「英語」の授業でビートルズの曲を歌い、歌詞の和訳を考えたのは、「英語」を学ぶ上で良かったと思います。先生は「英語」の歌詞とその和訳とイラストが書かれたプリントを配布していましたが、全て手書きだったので、熱意のある先生だったと思います。

「英語」は学校の授業で学んだ程度でしたが、大学入試のセンター試験は一問間違いでほぼ満点でした。
ただし、英語で会話することはできません。聞いていると相手の伝えたいことはなんとなく分かりますが、言葉のみで受け答えできず、基本は「ボディランゲージ」です。

高校の時に、「英語」を母国語とするアメリカ人は、センター試験の「英語」で満点をとれないという話を聞いたことがあります。また、「あずまんが大王」というマンガに登場する天才高校生「ちよちゃん」も、センター試験の「英語」はアメリカでの生活には役に立たないと言っていました。

なぜアメリカ人が満点をとれないのかを考えた結果、センター試験の「英語」で求められていたことが分かり、その部分を重点的に勉強しました。

以下、「なぜ大学の入試科目に『英語』があるのか」について私見を書いた上で、「学校教育の本質」についても考察しようと思います。
あくまで一個人の見解ですが、読んでいただけると幸いです。


2   大学の入試科目に『英語』がある理由

大学入試センター試験の科目に「英語」がある理由について、「世界で一番使われている公用語だから」といったことを言われますが、誤りだと思います。
そもそも科目は「外国語」であり、「英語」は「外国語」の1つでしかありません。
「外国語」には、「英語」の他に、「ドイツ語」「フランス語」「中国語」「韓国語」があります。

「世界で一番使われている」という「グローバル性」を科目の理由とする場合、「ドイツ語」や「韓国語」を説明できません。
例えば「フランス語」は旧植民地であった多くの国々で公用語になっており「グローバル性」があると言えますが、「グローバル性」が理由なら「スペイン語」も入試科目とすべきです。

コミュニケーションツールとして「グローバル性」のある外国語だけでなく、「隣国」の外国語も入試科目にしているという理由なら、「ロシア語」がないことを説明できません(大学の第二外国語では「ロシア語」を学ぶことができます)。


結論から言えば、これらの国は「日本」の歴史・文化・学問等の様々な分野において「深い関わり」のある国であり、「言語が日本語とは全く違う」ため、科目になっています。
そのため試験では、公用語として話すこと(コミュニケーションツール)よりも、「言語が日本語とは全く違うこと」への理解に重点が置かれています(「深い関わり」は「現地留学」を前提とした大学での専門教育で学ぶ内容です)。
その結果、センター試験の「英語」は、日本語を知らないアメリカ人が満点をとることはできず、アメリカでの生活には役に立たないものになっていると思います。

なお、全く違うのは文法です(日本語には文法がありません)。また、欧米の言語だと、単語にアクセントが存在し、文章は結論から書く構造になっています。試験問題で出ているのはこれらです。


3   学校教育の本質とは

センター試験の「外国語」は「日本」を中心に選ばれた言語です。また、その重点は「日本語との違い」に置かれており、会話に使えるものではありません。
そもそも他の入試科目を見ても分かりますが、「古典」「漢文」「日本史」など、実社会において役立つものとは言えません。
つまり、大学入試の内容は『実用』に重点を置いたものではありません。


では、なぜ役に立たないものを学校教育で学び、
大学入試に合格するため勉強するのでしょうか。


私は、学校教育は『日本の未来を担う日本人』を育成するために行われていると考えます。「アメリカ人」を育成するためでも、「アメリカの未来を担う日本人」を育成するためでもありません。

そして、『日本の未来を担う日本人』は、『世界を知る日本人』であるべきだという考えが根底にあると思います。
『世界を知る』ために、「英語」や「世界史」といった『外国』のことだけでなく、「化学」や「物理」といった『自然』についても勉強するよう、学校教育では求められています。
『日本人』を育成するので、「国語」「日本史」「古典」といった科目を勉強するのは当然と言えます。
これらの科目で成績の良い者が、難関大学(学術ランクの高い国内の大学)に進学できるようになっていると考えます。

なお、私見ですが、「数学」は『自然』を理解する科目ですが、「世界で一番使われている公用語」を学ぶ科目でもあると思います(経済学部などに進学すれば、「数学は言語である」と実感できると思います)。


4   おわりに

教育は「自己実現」や「自己統治」のためという『個人』の視点(自己のため)で語られることもあります。自分のお金を使って勉強する「生涯学習」は、「自己実現」や「自己統治」のためと言えます。

もっとも、学校教育は『世界を知る日本人』を育成するためにあるのではないかと思います。

私は、小学1年生の頃に学校教育と対立し、担任教師の指示に一切従わずボイコットをしていたので、特にそう思います。ボイコットしたのは、理由も示さずに型にはめようとされるのを嫌ったためです。
学校教育は、単に「自分らしく生きる」ためにするものではないと思います。

自由主義と民主主義を掲げる『日本』の「未来を担う」ため、個性や能力を伸ばし、多様な価値観を認めることが、学校教育では大事だと思います。
「自分らしく生きる」ことが、「社会のためになる」ように持っていくことが学校教育の目標とするところではないかと思います。

「英語」を知ることで「日本語」との違いを知り、「国語」を理解できるようになると、私は考えます。

以上が、私の経験等を踏まえた私見と考察です。
長くなりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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