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母は手負いの虎だった4 「群集心理の出どころを知る・薄ら笑いの野次馬」

ディープに綴るサバイバルサンプル。手負いの虎シリーズ4話目です。

【閲覧注意】今回の内容はユーモア適応外の事件が含まれます。

母は毎日泥酔しておりました。
足元はよろよろですし。
呂律は回らないし。
支離滅裂なことを叫んでは気絶したり。

わたしも弟も

「うちだけ戦場」

みたいな、生死に直面する毎日に疲れ果てていて。

10代にして、精神は。

死ねない人生を3ターンくらい生きた感じがして。くたびれ果てた老人のような心境。

わたしが16才の時。

うちには、レトロな灯油ストーブがあり。

母はぐでんぐでんな酔っ払いの割にコーヒー好きで。
よく、灯油ストーブの上に置いたやかんで湯を沸かしていました。

夜、ストーブを消してかなりたってから。

よろめきながら歩く母がストーブの傍で倒れ、傾いたストーブからやかんが落ちて。

幼い頃から強制的に鍛えられた、わたしの「危険度センサー」が、瞬時にレッドアラートになるのがわかりました。

その光景はスローモーションに見えて。

正直

「ああ、、もういい加減にして。。」という「うんざり」な感情が湧いてくるのもわかりました。

母は太もも全体に湯がかかった様子で、床にうつ伏せになり悲鳴をあげている。

ストーブを消してからかなり時間が経ってはいましたが、やかんのお湯はそうすぐには冷えない。

わたしは救急車の要請電話をかけながら、着ているものを脱がずに風呂場へ行くように言いましたが、母は言うことを聞かず。

トイレに行くと言って這うようにトイレに行き、パンツを脱ごうとしていて。

それを止めようと。ドアを閉めないように体を挟まれながら、パンツを押さえようと添えた私の手の甲に、べたっと乗ったものは。母の太ももの皮膚でした。

悲鳴をあげている母を湯船へ入れて水を注ぎ続け。

救急車が到着し、母の状態を確認した救急隊員の方は、やけど患者を多く受け入れたことのある大病院へ救急の電話をして、母の患部を冷やしながらストレッチャーへ乗せました。

その間、外では赤灯を回した救急車が停まっていて。

母と共にわたしも外へ出ると。

そこに広がっていた光景は。

まるで大道芸でも見物するかのように、丸く輪になって群れている大勢の近所の人たち。

まぁ、気になるよね。何があったのか。

わたしはやけに静まりかえった気持ちのまま、世の中がスローモーションに見える状態のまま、救急車に運び込まれる母を見つめつつ、自分も乗り込むスタンバイをしていました。

その時。

5才くらいの子どもを連れて野次馬に来ていたおばさんが。

「なにがあったの?って聞いていらっしゃいw」と、

薄ら笑いで自分の連れている幼子に言ったのが聞こえて。


子どもは言われた通りわたしのもとへ来て「何があったの?」と聞きました。

わたしは「怪我したけど、大丈夫」とだけ答えて。

救急車に乗っている間。近所のおばさんの薄ら笑いが、気持ちの上に不気味に張り付いて消えなかったのを覚えています。

その後、母は病院で、輸血を伴う皮膚移植手術を数回にわたり受けることになり、わたしは病院代にかなり振り回されることになるのですが。

数日後、姑(父の母)は近所の人たちに「いかに嫁がダメな人間か」をお題にやけどの話を語っていました。

あの時、輪になって見ていた人たち全てが事情を知っている様子で。

近所の人たちはわたしのことを

「母親が大やけどした現場を見ていたっていうのに、涙ひとつ流さず動揺もしていなかったよ、あの娘は。キチガイの嫁の血を継いだおかしな子なんだ。10代であんな子はいないよ。頭おかしいんだよ。」

と口々に噂している。

このセリフも近所の人と祖母が話しているのを聞かされたもの。

わたしと道端ですれ違う近所の人たちは距離を取り、遠目に好奇の目をわたしに向けながら、あからさまにひそひそするのみ。
面と向かって話をしてくる人はいませんでした。

わたしは誰にどんな解釈をされようが「気分は良くない」けれど、一般大衆の群れはそんなものだとどこかで納得していて。

その納得とは。

群れた大衆心理では、自分に実害がないことに対しても凶暴になりやすい。
その出来事自体に腹がたっているわけでもないので、許すこともない。

という流れ。

「公式サンドバッグ」です。

「あいつは誰が見ても普通じゃないのだから」「アル中だから、アル中の娘だから」何を言ってもいい。どんなに叩いてもいい。そうなって当然。私たちは正しくて善良で普通の一般人なのだから、正当だ。

と自分の鬱憤を晴らそうとする心理。

その凶暴さの根源。

それは。

劣等感(引け目)

劣等感とは誰かと比べる事でしか、自分の存在(立ち位置)を見つけられないときに増幅する感覚。

誰もが持って生まれている承認欲求。

ある意味、母は一人で群れることなく、やたらとパワフルにこの大衆心理の凶暴発作を、毎日、我が子達に向けて爆発させていたのだなぁ、と。

だから、わたしはこれ知っているのか、と。

他者よりもマシ。
あの人はおかしい。
わたしは普通。

そんな戯言では埋まらない心の風穴。

それを満たす源は。

「自分が自分を」

真っ正直で丸裸の。素の視点で承認することでしか埋まらない。

劣等感、引け目は凶暴さの源です。
増せば増すほど、わたしは正しく、あの人が悪くて劣っている、という役割が必要になり。
それはどんなに励んでも満ちることのない飢餓状態となります。

引け目があると、相手が自分より強いのではないか?と感じた途端、

「集団でやっつけるか?」

「傘下に入りゴマをするか?」

の二択になりやすい。戦争と似ている。

どちらも本来の自分ではないし、本題からズレている選択。

【この事件での悟り】

なにがあっても自分は自分であり。
そんな自分を受け止め、受け入れ。
状況に正面から丸腰で行動をしてみる。

誰かと向き合った時。

その人そのものを「ただそのまま見るだけ」がスタートであり。
媚びることも。
批判することも。
謙ることもなく。

自分、他者の「今」を。ただ「真ん中」から眺め感じられる。

それって、ものすごく楽なこと。

ブレない。

人との出逢いにおいて「真の意味」を感じられる、自分軸。

しんどい体験も、楽になる着地があるものです。

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