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楽あれば苦あり の本当の意味とは

 最近星の王子様の翻訳ばっかりやってて読み手がつかないです。
というわけで、ちょっと別のお話をば。

 「楽あれば苦あり」という言葉はよく聞く言葉ですが、実際はどういう意味なのか考えられたことはありますか?

 え?それって、楽をすればそれだけ後で苦しんじゃうってことでしょ?
 
 そう言うことももちろん人生にはあるんですけど、そうじゃないっていうのが今回のお話なんですよ。

 そう考えちゃうのは、例えばね、学校で宿題を出されて、それをほったらかしにしてたら、次の日先生に怒られた、っていうことですよね。

 つまり、最初にさぼった(楽)、その結果怒られた(苦)。ああ、まさに楽あれば苦ありだなって思いますね。

 ところがそうではありません。お釈迦様は、そもそもどのような悟りを得ようとしたかというと、私たちがこの世界で生きる上で、私たちの苦しみを取り払おうとしたのです。

 今までの解釈だと、どう頑張っても、苦しみというものは消えません。そもそも、さぼったのは、勉強をしたくないからなんですよね。より正確に言えば、宿題をしたくないからなのです。つまり、宿題をちゃんとしなくっちゃいけないな、っていう苦を先にやっておくと、後で何も言われなくて済むわけです。

 でもこれだと、苦あれば後は何にもないよ。っていうだけじゃないですかね。先生から何も言われなかっただけですよね。で、学校で勉強ができたからといって、社会で役に立つかっていうと果たしてそうじゃないわけです。

 学校で成績優秀だった、でも社会に出たら凡人でしたって言うことはざらにあるわけで。じゃあ、どれだけ宿題頑張ってても、結局「苦」はいつでもつきまとうじゃないですか。

 で、ここでは宿題を例にあげているわけですけど、こういうことは至るところにありますよね?

 ということは、お釈迦様、苦を全く解消してくれてないじゃないですか!

前触れが長いですけど、今回はここが疑問となって、考え付いたお話です。


 私が考え付いた結論はこういうことです。楽あれば苦ありの真の意味とは、
 
     楽のあるところに、苦もまたあるべきだ。

 ということですね。

 どういうことかというと、例えば釣りが好きな人を例にとります。釣りの好きな人ってすごいんですよ。全然釣れなくてもいいんですよ。どんな魚がかかるかな~って待っているのが楽しいんです。

 餌を選ぶのも、餌をつけるのも、スポットを探すのも楽しくて仕方がないんですよ。竿のことを考えたりね。もうすごい楽しむんです。

 で、結果として何も釣れませんでした。がっかり・・・とはならないんです。

 あ~楽しかった。っていうのがオチなんですね。

 で、釣りがあまり好きじゃない、そんなに興味のない人はね、全然釣れないと、つまらなくなってやめたがるんです。何が楽しいの?って感じです。

 魚がかかるまで待たなくちゃいけない、餌をとりつけなきゃいけない、スポットを探さなきゃいけない、そこまでいかなくちゃいけない、様々な面倒なことを「苦」とします。しかし、魚釣りが好きな人は、これらのことが全て楽しいのです。そりゃ、待たなくちゃいけないし、餌を付けなくちゃいけないし、いろいろと面倒な「苦」は存在しています。でも、「楽」が常に「苦」を打ち消しているのです。

 他にも例がありますよ。漫画家さんです。絵を描くにはかなり根気のいる作業が必要なのは、皆さんご存じですよね?紙やインクなどの道具をそろえて、そして下書きをして、ペン入れをして、ベタ塗りをしたり、トーン張りをしたり、1ページを仕上げるのに1日以上の仕事なんです。これを「苦」とします。

 でもね、やっぱりそういうことができるのは、それをするのが楽しいからなんですね。自分が描きたいと思うものを、描こうとして、描いているわけですから、それが自分の体にエネルギーを与えてくれるのです。すると、普通の人だったら「苦」であると思う様々なものが、そのエネルギーによって打ち消され、全然「苦」ではなくなるのです。

 「楽あれば苦あり」というのは、「楽をした後に苦しみが待っている」ということではありません。こんなこと言ってしまったら、楽なことをしている時でさえ、このせいで次は自分苦しまなくちゃいけないんだなって思って、一時も心が休まらないじゃないですか!こんなことを苦しみから逃れさせることに人生をかけた釈迦がいうわけないですよね!

 学校っていうのはちょっと嫌な所で、あえて「楽」と「苦」を分離してくるんです。「苦」は「苦」のままやらなくっちゃいけないよ。「楽」は「楽」で行ってていいよ。つまり、休憩時間とかですよね。これだと、生徒たちは、「授業」に「苦」しか感じないんですよ。だから、学校に行きたくなくなるわけです。

 「楽」と「苦」がともに一セットになり、「楽」が「苦」を打ち消し合うように行動をさせるということが、人生の一つの奥義なのです。

 釣り好きの男の子がいれば、釣りをさせてやることですよ。そして、そこから様々な興味へと広げていくことが大切なのではないかなと。そうすれば、先生が教えようとしていたことも、自然といつか学んでしまうものなのではないでしょうか。

 (そもそも教師に教育って何かわかってますか?って聞いてみたことあるんですけど、やっぱり答えられないんですよね。少なくとも三者三様の答えが返ってくるんですよ。だって彼らは上の命令聞いているだけだから。)

 とりあえず、釈迦はそう言っているんだっていうのが私の考えです。

で、ここからが応用なんですけど、「苦」があまりにも強すぎるとやばいのはみなさんおわかりですよね?だから、逆のことをお話します。「楽」があまりにも強いとやばいんですよ。

 例えば、「麻薬」とか、「異性に溺れる」とかね。こうした、「楽」が強すぎると、その時は気持ちいいかもしれないけど、結局後で苦しむ結果になるんです。

 今の時代の人たちは、このような「苦」と対応していない「楽」を、感じようと懸命になっているようにも思いますが、私は賛成できませんね。悪銭身に付かず、と同じで、悪楽は自弱の元となる、そう考えております。楽が入りすぎると、これは依存症になっていくんですよ。

 運動をする時も、「負荷」をかけることが大切です。でも、全く負荷のない宇宙では、却って筋肉が落ちていきます。これと同じで、「負荷」さえもが「楽」によって打ち消されるからこそ、走ることが好きっていう不思議な人もいるわけです。

 スキこそものの上手なれ、というのは、「楽」が「苦」を打ち消すことから、その道を進むのに適しているからなのです。

 noterさんも、文章を書くと言う手間がありますが、それを全く「苦」もなくやってのけているのは、その「苦」を打ち消す「楽」があるからなのです。
 

 自分というのを高めていくもので、「楽」と「苦」のバランスが取れているものを早いうちに見つけ、邁進していくことです。これこそ、私はこれからの時代の教育であるべきだと思うのです。

 私が星の王子様の翻訳をどうしてあんなに一生懸命できているのか。外国語を和訳するなんていう地獄を学生時代に散々味わった皆さんからすれば不思議だと思います。でも、私にとってはそれが楽しいのです。だから、辞書で意味を調べたり、翻訳をどうするべきかを考えることが楽しいのです。だから、皆さんが苦しくて仕方がないと思う「苦」が打ち消されているのです。
 ただそれだけのことなのです。

 

 



 

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