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創造の狂気〜ウォルト・ディズニー

20240316

ウォルト・ディズニーは、文化とアメリカ人の意識を改造した。専門家にしかわからない高度な芸術と大衆芸術を融合した。

ディズニーランドは、人造の環境と体験によって、全く新しい心象風景となり、そこでは人工が自然を凌駕し、日々の現実の心労・恐怖が、取り除かれる。虚構と現実の境界が失われる。

ディズニーの影響は知らず知らずのうちに心の中に浸透して、歴史観や価値観までも変えた。

ウォルトは、孤独で繊細で傷付きやすく、その一方で、自己顕示欲が強く、わがままで身勝手で独裁的である。

アーティストであるウォルトにとって、金銭とは完璧という夢を実現するための手段に過ぎない。

クリエイターと呼ばれる人々は、自我が圧倒的に強く、管理されることを極端に嫌うため、組織としてまとめることが難しい。

『私がしたことで一番重要なことは、人々をコーディネートして、一定の目標に向けて、まとめあげることだった。』
ウォルト

いい人と呼ばれるのは、他人の気持ちなんか気にしない、ちょっと無神経なくらいのトロイやつの方で、そういう人間の方が、いざというときは、親身になって心配してくれるものだ。

ディズニーの黄金期は、大量生産による消費文化といったアメリカの都市文明が世界中に広がっていった時代と一致する。

ウォルトのクリエイターとしての最大の行政のは、音楽と映像の融合である。
人は、音楽によって心を奮い立たされ、感動し、涙する。その効果は計り知れない。映画も同じだ。人々の記憶に残り続け、繰り返し鑑賞される映画は、音楽の優れた映画である。

ウォルトは何事にも熱中し熱狂した。

ウォルトは、利益にはならなかったが、金銭以上に求めていたもの、注目を集めることができた。

ウォルトには、他人と一つ屋根をシェアすることは耐えられないことだったし、家族がいなくなったことによる心の空洞を埋めることもできなかった。

ウォルトは、口が達者で説得上手で、完璧なセールスマンだった。

ウォルトは経済的な重圧によって仲間の結束にヒビが入ることを恐れた、仲間意識を大切にした。

ウォルトには誰にも負けない決断力と野心があった。

ウォルトは、アニメの失敗続きで、食べるものにも事欠き、不眠の夜が続き、金銭の無心ばかりしていたが、それでも信念を失わなかった。いつも楽観的だった。自分の能力を信じ、自分のアイデアや可能性を疑わなかった、前進あるのみだった。自分を信頼し、どんなことにも挫けなかった。腹が据わっていて物事を疑うことがなく、いつも幸せだった。
『生涯を通して、不幸だった思い出はない。いつも、幸せで、興奮して何かに熱中していた。』
恐れを知らぬ自信、事態は必ず好転するという子どものような自信を持ち、倒産にもめげることなく、不撓不屈 ( ふとうふくつ ) でいられたし、目の前のことに集中し、人に影響されることもなかった。

自立すること、チャンスを逃さないこと、金銭に困っても幸運を掴むこと

ハリウッドで、勇気と自信はあったが、何をすればいいのか、内心は不安でならなかった。

成功すること、世間に認められること、自分自身のために、ファンタジーの世界を創造することが目標だった。しかし、スタジオを設立し、本格的にアニメに取り組むようになって初めて、これまでの自分が自惚れて、自分を過信していたことに気付いた。

もう絶対に人には使われない。生きている限り人のためには働かない。自分は自分のボスなんだ。

アニメは外部の圧力に脅かされてはならず、アニメは何物にも勝り、アニメが失われるくらいなら、ビジネスは無意味であり、その価値もない。優れた作品を生み出すこと、それが、スタジオを運営する目的であり、この世界は何物にも脅かされてはならない。自分が楽しめるもの、誇れるものを創る。

ウォルトの趣味は仕事だった。頭の中にはミッキーマウスしかいなかった。

ウォルト自身、自分の情熱が衰えていくのを実感していた。

観客がスクリーン上のキャラクターに笑うのではなく、それに取り込まれていくことが必要と判断して、観客から共感を引き出した。

キャラクターは全人的で、行動も感情も現実的でなければならない。

生きるように動くのではなく、実際に生きていること、人格のアニメーションであること。

ディズニーのアニメーションは生命を描いている。というよりも、生命以上に大きいものを描いている。ウォルトが追求したのは、生命の模倣ではなく、その誇張である。

「三匹の子豚」は、国民の意識の中に浸透し、大恐慌への不安を反映し、また、それを和らげた。

ウォルトにとって時間など全く関心がなく、できるだけ優れたものに仕上げるために、全力投球するだけだった。

ミッキーがただ微笑むだけの取るに足らない存在になりさがってしまった時に、不機嫌なドナルドダックは怒りっぽくうぬぼれが強く、尊大で自慢たらたら、粗野で疑り深く、独りよがりでわがままで、まさに不品行と攻撃性の象徴だった。
ドナルドダックはある意味で観客にとって、日常からの解放、代償行為を意味したのかもしれない。
私たちの日常的な行動とモラルを、ドナルドは逸脱し破壊し、世界全体が怒りと暴力に荒れ狂っている時に、卑劣・増長に対する天罰、私たちの身代わりになっての復讐を意味したのかもしれない。

ウォルトは、金銭は目的を達成するための手段と考えており、ウォルトの唯一の野心は、優れたアニメを作ることであり、財産を作ることではなかった。

ウォルトの中で一番注目されたのは、その監督・管理能力だけでなく、スタジオのスタッフを、調和させ統率する能力だろう。

ウォルトの才能は、みんなに家族の一員と感じさせることだろう。

支配すること。 スタジオの外の現実以上に優れた現実を構築すること。 その能力を持っていることを顕示すること。それこそ、ウォルトがアメリカで実現したものだった。
それは「逃避」ではなく、「支配」であり、支配に伴う代償的なエンパワーメントである。
終戦直後、国は戦勝に湧いていたが、そのムードはたちまちのうちに、幸福感・陶酔感から、不安・不確実性に変化した。
軍事的出費による未曾有の経済成長であり、戦後10年間は賃金は上昇し、労働時間は短縮され、マイホーム所有者は激増し、帰還兵には高等教育が可能になり、一般消費は急激に伸びた。
しかしより重大なことは、時代の急激な変化に伴って、居場所を失ったという混乱した感情である。賃金の上昇や消費の拡大とともに、アメリカ人は郊外にマイホームを持ち、1950年代のテレビの誕生によるメディア革命を体験し、自動車の普及・全国規模のハイウェイ建設・民間航空の発達に伴って、移動する範囲は拡大した。さらにニューテクノロジーの発展、官僚体制の強化などで、こうした新しい社会と交流する新しいタイプの人格が誕生した。
このタイプのパーソナリティは内面の指標に導かれるのではなく、他者に気に入られる必要に突き動かされる「他者志向」である。

ウォルトな、アメリカ人の意識を改造し、国民は、現実よりも願望実現を好み、真実よりも偽り、天然よりも人工を好むようになった。

ウォルトは、すべてが統制と理解の域を超えて成長し続ける、まさにその時に、人はどのようにして世界に自分の意思を明らかにできるのかを指し示した。

ウォルトは、慰みや不遜や天真爛漫、あるいは、健全さの長ではなく、秩序の長だった。








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