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従順という心の病

20240410

「合理的に把握すること」「従順になること」を要求する私たちの文化、つまり人間の本質を観念的に理解しようとする私たちの文化は、「規格化された人間」を生み出す。
私たちの文化に生きる個々の人間は、それゆえ常に「役割」 や 「地位」という「観念的なもの」によって評価される危険にさらされている。自分を独自の個体と見なす私たちは、「人格(ペルソナ)」という構築物を、自分自身の独自な成長によって手に入れたものと勘違いしている。
それゆえフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは「観念的な世界」を「虚偽」と見なした。なぜならそれは「イエスマン」から成る世界、 「言われたとおりに行動するだけの抑圧された人間」から成る世界だからである。

「不従順な人間である」という私たちの不安が、自分を抑圧者に従わせようとする。 その結果、私たちは抑圧者と結びつき、抑圧者の「暴力」と「侮辱」を「愛」 と取り違えてしまう。

「従順になろうとする欲求」が、私たちの文化の根底に横たわっている。この「従順への欲求」こそが「文化そのものによって引き起こされ、生み出される病理」がどのようなものであるかを明らかにしている。 この「従順を呼び起こす構造の根底」が変革されなければならない。 従順さを要求する構造は明白で、いたるところに存在し、私たちの日常生活の一部となっている。

同じ方向に泳いでいる二匹の若い魚が、偶然に向こう側からやってくる年上の魚と顔を合わせた。その年上の魚は、若い魚を見てうなずき、「こんにちは、若いの。水の具合はどう?」と聞いた。二匹の若い魚は、さらにしばらく泳いでから、そのうちの一匹がもう一匹の方を見て、尋ねた。「『水』って一体全体、何のこと?」。
デヴィッド・フォスター・ウォレス

「従順」は、この例え話の中の「水」と同じようなものだと言える。私たちは「従順」が何であるかについて何も知らない。その上、私たちは「従順」によって、現代の「奴隷」や「服従者」となっているのに、そのことに何も気づかない。私たちは、もはや「自分を縛る鎖」を感じられなくなっている。だからこそ、「隷属することに対するたたかい」「従順になることに対するたたかい」は、難しいのである。

私たちは既に従順になっている。
従順であるとは、「他者の意志への屈服」である。この場合、他者は、被抑圧者に対して「権力」を行使している。この抑圧は、既に乳児期に、つまり言語や思考を身につける以前に始まる。そのため従順になった子どもは、子どもの期間だけでなく、後になっても気づくことなく、耐え忍ぶようになる。
このように、私たちの文化が発展してきた。私たちの文化は、しっかり固定化した慣習がそれを反映する従順へと私たちをそそのかし、権威に疑いを持たないように仕向け、予め方向づけられた計画や集団の思考に献身するように誘導し、最終的に、自分で考え、自分で判断することを不可能にする。

私たちは従順であることに気づかない。
私たちは「合理的な思考」によって、無批判な従順に抵抗できると考えている。その際、そもそも「思考」や「熟慮」自体に問題があるとは気づかない。その問題は、私たちの幼児期の最も初期にさかのぼる深いものであり、母親や父親の圧倒的な力によって屈服させられた「親=子という隷属関係」の問題である。私たちは、自分自身にふりかかる親の権力を見抜くことができない。なぜなら私たちの文化では、母親や父親はすべてを知り、すべてにおいて慈悲深い存在で、私たちのために最善のことだけを願うと思われているからである。

子どもの誕生後、何ヶ月かのうちに、不安とそれに伴う苦痛を自分から遠ざけるために、異常なことが起こる。子どもは、自分を抑圧する者、つまり自分を攻撃する者を「自分が同一視すべき対象」として理想化し始める。

「子どもは、自分が身体的にも、道徳的にも、無力だと感じており、人格としても、論理的に考えて抗議するにはあまりに未熟である。 そこで大人は、圧倒的な力と権威で、子どもを黙らせ、子どもは、自分の不安が最高潮に達すると、しばしば子どもの感性を奪い取る。自動的に攻撃者の意志に自分を従属させ、攻撃者の意向を察知し、自分自身をすっかり失い、攻撃者とまったく一体であるかのように自分を強いる」。

このような仕方で、子どもは、自分固有の感覚や自分の表現を疑い始める。 それと同様のこと、従順を生み出すどの文化にも起こる。 根本的な問題は、不安による両親との同一視が、子どもの心に、罪の意識を植えつけることである。子どもは、大人の罪悪感を内面化する。 こうして子どもは、この罪悪感を内面化しつつ、大人が自分に禁止することを引き受けるのである。

別のことがさらに起こる。罪悪感は、両親への結びつきを強固なものにする。 なぜなら、両親は子どもに「子ども自身の力によって両親との関係を改善することが可能である」という誤った望みを与えるからである。罪悪感は、一方において自分が無価値であるという感情を呼び起こし、他方においては救いとなる。罪悪感は、両親の手中にあるという耐えがたい状態からの解放を可能にするように思える。これこそがまさに矛盾である。私たちは罪を拒否するが、他において、私たちの無意識下の深層で、罪こそが「自分を否定し罰する両親を、自分に結び付けるもの」となるのである。このことが私たちの存在を、がんじがらめにしている。









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