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ピンピンコロリの103歳のおばあちゃんの話。

私が最初に人の死に接したのは、小学校低学年?の頃に母方の父が亡くなったときのこと。

姉や従姉妹と、「おじいちゃんガンで死んだんだって」「がーん!!😨笑」のような小学生らしいやりとりをしたのを覚えている。
その時に、小さな会社を一代で築いたらしいおじいちゃんが死んでも、世の中はこれっぽっちも変わらず動くんだなと思ったのもやたら印象に残っている。

斯くして手塚治虫の火の鳥、ブラックジャック等等を読んで成長した少女は、人はいつか死ぬし文明はいつか滅びるんだという思考回路を備えるようになった。
(だからこそ死ぬまでのわずかな間に精いっぱい楽しみたいとか充実したいと思って今の私にたどり着いたのです☟参照)


その後、母方の祖母、前の会社の先輩、上司、山仕事でお世話になったおじちゃん、伯母と、悲しい別れがいくつかあった。

31で初めて妊婦になった頃、夫になってくれた人の大切な母が、つまり私の母になってくれた大切な人が、初孫の誕生の1ヶ月前に亡くなった。原因はガンで、まだ60歳だった。

このときは本当に悲しかった。

だけど、いくつも幸運があったと思っている。
大好きな息子の結婚式の姿を見せてあげられたこと。
まだ元気なとき、私は蝶々になって見守るからね、と愚嫁にも教えてくれていたこと。
亡くなる一カ月前から、夫、娘、息子がみんな介護休業を取得し、自宅介護でゆっくりみんなが死を受け入れていけたこと。
妊娠中の愚嫁は、そろそろかも、というときに家に行き、最期の日に一緒にいさせてもらったこと。
家族葬で精一杯、お花いっぱいのお見送りをできたこと。

だから私は、自然いっぱいの檜原村の生活で、アゲハチョウやモンシロチョウを見かけるたびに、あ、お母さんが遊びに来てくれたなと、いつも嬉しくなる。

妊婦のお留守番期間は少し寂しかったけど、仲良し一家の死別はすごく満足のいくサヨウナラが出来たように見えた。


ちょっと話は飛ぶが、私の父方の祖母は大正生まれの103歳で、2023年の3月に人生初の個展を開いた。

私がそそのかし、父が朝日新聞の取材を招致!いい思い出になりました


愛子さん(以後、愛ちゃん)は早くに夫を亡くし、女手一つで苦労しながら息子2人を大学までいかせた。2人の息子たちは立派に育ち、高校の校長先生と大学の准教授になった。孫は総勢7人、曾孫は6人、それぞれのパートナーも加わり、夏休みや正月にみんな集まるときはそりゃあもう大変である。

個展のときの大集合(全員ではない)

我が家は姉が3歳までは千葉の流山の愛ちゃん家に同居し、その後つくばへ引っ越した後も、しょっちゅう流山に行っていた。愛ちゃん自身が末っ子でたくさん愛されて育ってきたからか、とにかく受容してくれた。100%甘えられる存在で、私も姉も当然おばあちゃんっ子になった。

また、愛ちゃん自身が義母に辛く当たられた経験から、嫁(私の母)にも優しく寛容で、母はいつもそのことを感謝していた(ので私も義母とそんなふうになりたかった…)。
甘え上手で明るい愛ちゃんは、病院や近所の方からもとても慕われていた。

そんな愛ちゃんは70代で乳ガンを乗り越え、なんやらかんやら、私もあっという間に大学生から社会人になり、あれ?愛ちゃんいつまでも元気だな?もう80、もう90、ふと気づくと100歳なのに、まだ一人で暮らしている!!!
もちろんヘルパーさんやデイサービスあっての生活だけど、自分のペースでやれるからラクなのよ、今が一番幸せよ、といつも言っていた。

98才差の次男と愛ちゃんと私


社会人になってからは働くことの苦労を、子どもを産んでからは子育てしながら働くことの大変さを、つくづく思い知った。
ましてやワーママなんて言葉もない、男女雇用機会均等法なんぞまだまだない、昭和初期のことでしょう?想像もつかないけど、よくぞまあヤンチャな男の子2人を立派に育てあげて…

愛ちゃんは定年になってからお友達とあちこち旅行に行ったり趣味を楽しんだりとても楽しそうだったけど、いやいやいや、そりゃぜひともそうしてください。。
父も叔父も、愛ちゃんをとても大切にしている。
人に優しく、人に愛され、マイペースにたくましく暮らす愛ちゃんを、私はとっても尊敬している。


そんな愛ちゃんとも、ついに永訣することになった。

10月頭に入院することになったと母から連絡があり、コロナのため面会はできず。
そろそろだから自宅看取りにしようかと準備をして月曜に退院するはずだったのが、前の金曜の夕方に急変。その日の夜に、あっという間に息を引き取った。らしい。

自宅に戻ったら会いに行こうと思ってたのに。
父も母も伯父も孫一同も、まさかそんな早く亡くなるなんて。とビックリしてると思う。

ましてや私は義母の経験があったから、なんとなく最期は会えるだろうと勝手に思い込んでいた。

愛ちゃん、自宅介護だと息子や嫁が大変になるのわかってて、あえてこのタイミングにしたとしか思えない。
もしくは私たちの介護では不安を感じて予定を早めたのかなと笑い合った。30年以上お世話になっている病院だから、愛ちゃんはここでよかったんだろうな。

最後の最後、息子をさしおいて、久美子さん(嫁)で良かった、ありがとうって言ってくれたんだって。最後まで嫁想いの、優しい優しいおばあちゃん。

ボケることなく、死ぬ数時間前にも手はしっかり動いてたって。
見事なまでの、絵に描いたような、ピンピンコロリ。
昔言ってたもの。ピンピンコロリがいいなあって。

103歳。大往生も大往生。なんにも悔いはないよね?なにしろ天国にはたーくさんの友達が待ってるから!笑

仕事や子育てを言い訳に、なかなか会えてなかったこの数年。この世にいてもあの世でも、たいして変わりはないような気もするし、一方でモノになってしまった愛ちゃんの姿を見て、もっとやれることなかったのかなとグジグジ考える。


納棺式の前に慌てて会いに行ったこの日、やるせない悲しい気持ちとこれまでの感謝の気持ちとごちゃ混ぜの感情を整理するために、殴り書きで書きました。
noteさん、素敵なプラットフォームを作ってくれてありがとうございます。
こんな私的な徒然ごとを読んでくださったあなたもありがとう。

私もあと何年後になるかわからないけど、ピンピンコロリでありたいなあと思いました。
というわけで、愛ちゃんはいつまでたっても私の憧れであり、自慢のおばあちゃんなのです。

なんてことない、愛ちゃんちの台所。

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