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【文章】はて。小説とは何だろうか?

何を書いても小説になる作家、
という話を、昨日書いて
「はて待てよ。小説って
そもそも何だろうか?お前は
よくわかっているのか?」
という疑問がフツフツと
湧いてきました。 

はて、小説とは何か?

人間の、
人間による
人間のための文章群。

人間に興味があり、
人間とは何か?を追求する文章群、 
というのは言えるでしょう。

その背景には、 
市民による革命や革命運動で
解放を目指したり、
解放された人間たちの
市民の成立があるでしょう。
 
でも、これじゃあ 
アバウト過ぎる。

リアリズムを大切にした
トルストイや森鴎外と、
奇妙な風刺奇譚を書いた
カフカやラブクラフトとは、
別物なんじゃないかしら。

思想を文芸にしたカミュと
奇妙な寓話を書いた星新一は
やはり別物なんじゃないかしら。

別物なんだとしたら、
別々の名前をつけねば、
混乱するんじゃないかしら?

カミュと星新一の違いは、
少なくとも、
硬式テニスと軟式テニスくらいの
違いはあるんじゃないかしら。

でも、なんらかの感情が
織り込まれた文章を
明治時代以来
日本では「小説」と呼んできた。
欧米なら物語が、
近代日本なら感情が含まれた文章群が
小説と呼ばれてきた。

どうも「小説」という媒体は
あまりに広範囲の文章群を
指してきたのではないかしら?

たとえば、
川上未映子と
遠藤周作と
町田康と
サリンジャーを一括りに
してしまってるだけかもしれない…。

そのせいで、私は
とんでもない誤解をしてきたのでは
ないかしら?

写真家ひとつをとっても、
風景写真家、
人物写真家、
スポーツ写真家などに
わかれているように、
リアリズム小説、
集団コント小説、
風刺小説、
私語りの私小説、
常識を破壊する小説、
常識を再確認する小説、
もう細かく分けていけば、
キリがないくらい、
わかれているような気がする。

こうした差異は、
読んでいるぶんには
差し支えがないでしょう。

でも、書くとなると、
こうした差異はかなり問題になる。

自分では、
風刺小説が好きだから、
そんな風に書いているつもりが
どうもその人自体は
私小説系が得意で、
ついつい私小説的な中身に
なっている。
そうしてそのことに気づかない。
なんてことはないかしら?

若い時には、
普段から親しみのある文章によって
自己表現をしたくなり、
若い時には、誰もが、
「私は小説家になりたい」と
思ってしまうハメになる。

厳密に言うと、
海釣り専用の
道具と才能を持ちながら
川釣りをして、漁師を目指して
いるような事態に
なっているのではないか?
そうして、そのことに
自分自身は気づかないでいる。

小説家になりたい、
というのは、
人間になりたい、
というのと同じくらい
範囲が広過ぎて、
何も言ってないに等しい。

そうして、
本当の意味での小説に
向いている人だけが
いわゆる小説家になる、なれる。

この場合、
真の小説が書ける人かどうかは
単なる差異に過ぎない。

よく似ているけど
硬式テニスが上手いのか?
卓球が上手いのか?
バドミントンが上手いのか?
人によって、差異があるように
文章が上手いからと言って
その人が小説が上手いかどうか、
それはまた別の話になるんじゃ
ないでしょうか?

小説は、いろいろとある、
ように見えて、
実は狭い範囲の文章群では
ないでしょうか?

で、誰もが、若い時、
小説家を目指していき、
結果、小説家になれず、
ひと知れず、挫折したと
本人は思ってしまう訳ですが、
別に、挫折とか、思う必要は
ないのではないでしょうか?

で、やっぱり、
人様のnoteを読んでいて、
うわあ、この人は小説家的な
文章群を書ける人だなあ、と
感じてしまう訳ですが、
まだジャンル名がないだけで、
誰にだって、その人に向いた
文章作成方法があるに違いない。

翻訳が上手い人が
必ずしも上手い小説を書けるとは
限らないように。

分類やカテゴライズが上手い
コラムニストが
必ずしも上手い小説を書けるとは
限らないように。

ただ、歴史的にいって
この200年以上、
いちばん地位が高かった
小説という媒体がさも立派に
見えているだけに過ぎない。

もう200年したら、
今の小説とはひと味もふた味も
ちがう別々の媒体が立派に
成長しているかもしれない。

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