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【古典】カポーティやフィッツジェラルドはもう古典なのか?

古典って何だろう?
クラシックって何だろう?

今日、本屋をウロウロしながら
しみじみ悩みました。

ジョン・アーヴィングの
『ガープの世界』を
手に取りながら、こう考えた。

アーヴィングは微妙だなあ。
すっかりクラシックなら
読む側も受け取りやすいけど、
今まさに現在的な作品かというと、
『ガープの世界』や
『ホテルニューハンプシャー』は
日本でいえば、
昭和文学みたいなものでしょう。

書いた作家アーヴィングは
まだ生きているけど、
だからといって、
作家が生きてたら
作品は現在的かというと、
そうとも言えない場合がある。

今年3月に他界した
大江健三郎がまさにそうでした。
本好きな20代の人に
大江健三郎は読む?と訊いたら、
文章が現在的でないから
読まない、読みにくいというんです。

大江健三郎はもう古典に
片足を突っ込んでいたのかな。

でも、その20代の本好きな女子は、
不思議なことに
遠藤周作は文章がわかりやすくて
よく読むんだという。

1996年に亡くなった遠藤周作は
現在的で、
今年に亡くなった大江健三郎は、
もう古い作家だったとは…。

あ、そういえば、
古典かどうか、こんな線引もありますね。
岩波文庫に入ったら古典であり、
まだ岩波文庫に入ってなければ
それはまだ現在的である、と。

岩波文庫では、
先月、中上健次の短編集が
新たに仲間入りしました。

岩波文庫って、
え?ええ?もう中上健次まで
含めちゃうの?と私はびっくりでした。
無論、嬉しいのですが。

その前には、
大江健三郎の長編が2冊、
短編集が1冊、
それから開高健の長編が1冊、
短編集が1冊、
岩波文庫に入っていますね。

さらにその前となると、
武田泰淳の作品集
『滅亡について』になるのかな。

その前は、江戸川乱歩の
短編集が2冊、3冊出てますね。

その前はだいたい、
岩波文庫らしく、戦前にいた
文豪作家の作品が並んでいます。

岩波文庫から出ると、
ああ、これは古典作品だな、
と納得できます。
古典の目安になってますね。

あと、講談社文芸文庫も、
古典とよぶべき作品を
きちんと出しているレーベル。

今は、中公文庫やちくま文庫でも、
戦後文学の掘り起こしを
よくやってくれている。
私みたいな戦後文学好きには
たまりません。嬉しい限り。

ところで、
アメリカ文学はとなると、
うまく判断がつかなくなります。
村上春樹に言わせれば、
レイモンド・チャンドラーや
フィッツジェラルドは、
もう古典なんだそうな。

では、サリンジャーはどうか?
現代的なテーマだとも感じますが、
でも、戦前に書かれた作品。
今の感覚ではない要素も
描かれているでしょう。
古典かどうか、微妙な感じがしますね。

フィッツジェラルドは
確かに、もう古典だというのは
よく分かる気がします。
そういえば、
フィッツジェラルドは
岩波文庫で、短編集が出てますね。
やはり、岩波なら古典、
というのは、間違いないみたい。

それに、
村上春樹と柴田元幸さんの対談本
『本当の翻訳の話をしよう』を読むと
二人は、本国アメリカで、
アメリカ人が、
これは古典だ、
これはまだ古典じゃないと、
感覚的に受け止めていることを、
肌で感じているんですよね。

それならば、
トルーマン・カポーティはどうだろう?
やはり、カポーティもそろそろ、
古典の仲間入りをしていく頃
かもしれないですね。

それなりに、カポーティ作品も
歳を重ねてきましたからね。
問題なのは、いくら歳を重ねても
価値が揺るがないのが
古典だっていうことです。
カポーティの作品
『ティファニーで朝食を』や
『夜の樹』や『誕生日の子ども』は
きっとずっと残るでしょう。

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