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1日でノンフィクション映画を3本見て具合が悪くなった話【たまにはエッセイ】

先週の日曜、私はなんだかとってもハーレイクインだった。イライラしているわけではないし、ストレスとは無縁の生活なんだけど。なんか朝からべっこう飴を口に入れて最速で噛み砕いたり、低音マックスでDaftPunk流して踊ってみたりしていたんですよ。ハーレイクインでしょ。

で、夕方からヤクザ抗争モノの映画を観たくなり、白竜や竹内力のVシネを観てたのだけれど、どうも嘘っぽい。役者がキレるたびにリアリティが減る。おでこの血管がリアリティを吸収しているのか?

そこで「ノンフィクションだな」と思い、大好きな「凶悪」という映画を見始めたんですね。

「凶悪」に感じた「思想性の高さ」

「凶悪」は山田孝之主演の、ノンフィクション映画だ。2005年に起きた「上申書殺人事件」をもとにしている。簡単にあらすじを書くとこんな感じ。

複数の殺人・放火で死刑が決まっている須藤は、面会に来た雑誌記者・藤井に「首謀者が娑婆に残っている」と伝える。その首謀者、先生こと木村に復讐をしたい須藤は「真相を記事にしてくれ」と藤井に話し、面会のたびにうろ覚えの記憶を話す。編集長からNGを喰らうが、ジャーナリスト精神で事件にのめり込んでいく藤井。その結果、証拠を押さえ見事に警察を動かして木村は逮捕される。

実際に上申書殺人事件では「新潮45」の記者が、事件の真相を世間に出して、木村を捕まえるんです。

この映画は須藤役のピエール瀧と、木村役のリリー・フランキーというサブカルコンビが殺人を犯す様を描く。その手法がちょっとサイコすぎるので「狂気的で怖い」という感想になりがちだ。

でもこの映画、マジで狂気的なのは藤井なんですよね。藤井は編集長にNG食らっても捕まえようと単独で調査を始め、認知症の母と、ひとりで介護する妻をほったらかす。ついには木村の家に不法侵入し、自分が捕まる羽目になる。

で、ようやく木村を捕まえたあとの裁判で、すっかりキリスト教にハマっている須藤が「神様が生きて償えって言うんです」と言うと、「てんめ!このやろっ!てめーは生きたちゃダメだ」と烈火の如く怒り出す。さらにラストシーンでは木村と面会をして「私をいちばん殺したいの須藤でも遺族でもない。お前だよ」と皮肉っぽく揶揄されるんです。

大好きなシーンだ。ここで藤井を必ずしも正義のヒーローみたいに描かないんです。絶対に良いことしているのに。観ている側に議論の余地を残しているのが素晴らしい。

以前、プペルの記事で書いた思想性ってやつですね。映画内で反対意見を描くことで、観ている側の感受性が刺激される。

ただ、このテーマで思想性を出すのって、バリバリむずいと思うんですよ。100人観たら100人「リリー・フランキーが悪い!」と言うに決まってるので。そんなハードルのなかでも、エンタメ以上の思想性を作り上げたという点に感動する映画だ。

で、葛城事件にスライドする

凶悪を観て、コーヒー飲んで「おもろい〜」とひとしきり拍手をすると、私は完全に落ち着きを取り戻したんですけど、代わりに異様なほどノンフィクション欲が出てきてしまい「葛城事件」を見始めるんですね。

この映画は限りなくノンフィクションに近いフィクションでして、池田小殺傷事件をはじめとしたあらゆる痛ましい事件を徹底的に調べ上げ、これ以上ないリアリティで描いたものだ。ざっくりあらすじを書くとこんな感じ。

葛城清は工具店を営む亭主関白な父親だ。子どもは比較的、優秀な保(たもつ)と、飽きっぽい稔(みのる)。幼いころから父は保に期待していたが、稔はないがしろにされていた。20歳を超えて稔は大学を辞め、声優を目指し始める。一方で保は結婚。しかし営業マンとして働くも解雇される。一方の稔と母・伸子は父のDVから逃げるように、賃貸を借りる。そんななか、保は再就職がうまくいかず、ついに自死を選ぶ。稔は「一発逆転」と独りごちながら、包丁を持って駅に入り、無差別に人を殺傷した。

「亭主関白な父」「従順な母」「期待を背負う長男」「自己否定が激しい次男」という、よくある構図のなかで完全なバッドエンドを描くとこうなるんだろう。素晴らしいのは「リアルさ」だ。清のような「毒親」はしこたまいる。毒親の環境下においてよ人は知らぬ間に「呪われている」んです。そしてその呪いはいつ爆発するか分からない。

清も稔も怒ると敬語になるんですけど、この口調の変化とか、見ていて「うわ〜おるおる!こういうネチネチした怒り方する人おる!」と共感できるくらいリアリティがあるんですね。だから「ノンフィクション」と語られるが、この作品は完全なるノンフィクションではないです。

で、最後、あらすじには書かなかったが、大事なシーンがある。保が死に、稔の死刑が執行され、伸子は精神病院にいるなか、たったひとりで清が家にいる。この「家」というのが、この映画の肝なんです。

清のかけた呪いによって一家はメチャクチャになったが、少なくとも彼自身は「立派に家を守っていること」を自負しており、かつ生きる理由でもあった。亭主関白な父親ってみんなこうですよね。

そんな清が最後に家の道具をぜんぶめちゃくちゃに壊して、掃除機のコードを庭のみかんの木に掛けて首をつるんです。結局は未遂に終わるんですけど。この家を壊すという行為が、つまり清自身の終わりと言ってもよくて、とてもメッセージ性があるように思う。

そして、ここで清を殺さなかったのも、素晴らしい。というのも作品中に稔と獄中結婚をする死刑反対の活動家が現れて「死刑は諦めです。私は人間に絶望したくない」というわけで、最後に清が人生を精算できなかったことで、ほんのりと希望を残しているわけですね。ちなみに、みかんの木の花言葉は「寛大」なんですけどね。これは関係ないか。考えすぎか。

最後に「冷たい熱帯魚」を観て、園子温の"狂気"に冷める

「いや〜葛城事件も何回見てもおもしろいわ」とひとしきり感動してたんですけど、それでもまだノンフィクション欲冷めやらぬなか、園子温監督の「冷たい熱帯魚」を観ることにした。

この作品は「埼玉愛犬家連続殺人事件」をもとにした作品だが、実際は「園子温節全開」という感じで、めちゃめちゃ派手な演出が加わっている。あまりにグロすぎて超絶人に勧めにくい。

すごいグロいんですけど、決して怖くはないのが園子温監督のエンタメ性だと思っている。私は彼の伝記を読んで「東京ガガガ」とかの路上パフォーマンスを知ってから、かなり人として好きなんです。でも映画監督として好きかといわれると「うーん」なんですね。

特に「冷たい熱帯魚」は「どうだ!狂ってるだろう!残酷だろう」という作者の意図が透けて見えるんですよ。感動ポルノならぬ残酷ポルノなんですよね。特に彼の作品でいうと「笑う」という行為をサイコパスと結びつけている。冷たい熱帯魚だと大笑いしながら殺人をしたり、死体を蹴ってみたりする描写があるんです。

園子温はこの映画にあたって「観客に癒しも慰めも与えなくて、残酷な事実だけを提供したかった」と言ってます。しかしもうね。わざとらしさが強すぎて、逆に癒される。演じてる感がちょっと際立ちすぎててリアリティがない。あ、だからグロさはあっても怖くないのか。

最終的にフルハウス見て落ち着く

という感じで、Vしてみた後にちょっとグロめのノンフィクション映画を3本観たので、なんとなく頭がホワホワしたんです。処方箋としてフルハウスを観たら無事落ち着いたんですけどね。

しかしノンフィクション映画の正解って何なんでしょうね。「凶悪」のような「善悪を問う」というメッセージは王道だろう。「葛城事件」のような「どう犯罪者が生まれるか」という進化論的な描き方もおもしろい。「冷たい熱帯魚」のようにエンタメとして再構築して、全く新しい作品にするのも需要があるだろう。

三者三様ですが、どれも人気作です。観るとしたら食後がいいかもしれん。飯どきに見たら食欲が失せるし、食前に見たら喉を通らなくなるかも。まぁ人に勧めにくい映画ですが、暇でしょうがない方はぜひ。そしてコメントで感想を教えてください。

今回は珍しきエッセイにしてみましたが、明日からは通常運転に戻りますので、ぜひ今後とも呼んでいただけますと、嬉しくてリンボーダンス踊ります。

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