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【エッセイ】 祖父母の足跡 ー本について思うことー

 幼い頃から集団というものになかなか馴染めず、ことあるごとに孤立してしまう僕が、人恋しさに悶えるいくつもの夜を乗り越えてこられたのは、ひとえに本のおかげだ。
 小説、エッセイ、紀行文、指南書、詩集。どのような様式であれ、本には書き手の最も純粋な本音がぎっしりと詰め込まれている。細やかな感情の息遣いが、しっかりと刻みつけられている。
 僕は、「本」は「人」だと考えている。だから僕にとって、本を読むこととは、ニアリーイコール、時空を飛び越えて執筆時の書き手に会いに行くことなのだ。とりわけ、鬼籍に入った人と心を通わせられる点は、読書の最たる醍醐味だろう。
 だから、僕の本探しに対する情熱は、一向に衰える気配がない。いや、むしろ、年々膨らみ続けているような気さえする。
 近所の図書館や大型書店へ行くと、
(たかだか残り数十年の人生で、ここにある全ての本を読破することは絶対に不可能……。人生とはなんて不条理なんだ)
 そんな暗澹とした気分に苛まれることも珍しくない。ここまでいくと、本の虫よりもはるかに深刻な、「本の寄生虫」だ。
 僕がこれほどまで本の世界にのめり込むのには、ちゃんとした(?)理由がある。これを読んでくれているあなたは苦笑するかもしれないけど、一度、本を通して心通わせた故人は、西洋的にいえば守護天使、東洋的にいえば菩薩のような存在へと生まれ変わり、あらゆる厄災から身を守ってくれたり、正しい道へ導いてくれたりすると、僕はあくまでも本気で、大真面目に信じているのだ。

 さて、あれは確か、長かった冬が終わり、本格的な雪解けが始まってから一週間ほど経った早春日のことだったように思う。
 久しぶりに実家へ帰省した僕は、物置と化して久しい自室の整理整頓に精を出していた。両親は所用で出かけていて、家には僕ひとりしかいなかった。
 部屋をあらかた片付け終え、なんとはなしに居間へ。でかでかとした棚にびっしりと並べられた本を、隅から隅まで漁ってみる。(僕の母親もまた無類の読書好きで、書籍収集には常に余念がないのだ)
 その時、僕は運命の二作に邂逅した。ひとつは、カナダ人である父方の祖父母が晩年に執筆した自伝冊子。もうひとつは、韓国人である母方の祖父母が若い頃に書いたエッセーを掲載している、教会の季刊本だ。
 四人の祖父母には、生前、会う機会があまりなかった。その理由は他でもない、僕がどうしようもなく薄情な奴だからだ。もちろん、ずっと離れて暮らしていたことが一番の原因ではある。だけど、それにしたって、親戚付き合いを丸ごと嫌煙して生きてきた節は否めない。
 躍起になって夢を追いかけたり、日々の生活に追い立てられたりしているうちに、皆、バタバタと天国へ旅立っていってしまったのだ。
 興奮を覚えた僕は、そのまま冷たい床に座り込み、冊子と本のページを交互にめくった。
 両作とも読み終え、窓の外に目をやると、西の空へ傾いた太陽が、最後の一吠えみたいな夕焼けを放っていた。

 家を出て、腐れ縁のオンボロな軽トラに乗り込み、いつもの農道を突っ切って、愛する農園へ向かう。いてもたってもいられなくなって。
 とっぷりと暮れた空の下、ズラッと立ち並んだ我が子のような果樹たちを見つめながら、僕は考えた。ここで起きた出来事や、感じたこと、一緒に農園を立て直してくれた彼女との思い出を、ひとつの作品に昇華させてみたい、と。
 早速も早速、祖父母の影響をモロに受けている単純そのものの自分が、なんだか恥ずかしかった。だけど、三十代半ばを越え、いよいよ中年期の鳥羽口に立った今、予想だにしていなかった新たな夢を見つけることができて、久しぶりにワクワクしていたのは、ここだけの話。
 明くる日、僕はいつもの書店へ行き、一時間以上も悩みに悩んだ末、生まれて初めて上等なペンと手帳を購入した。
 帰宅後、特に印象的だった祖父母の言葉を仔細に思い起こし、丁寧な筆跡で書き留めてみる。するとその時、懐かしくも暖かな祖父母の気配が、両肩にフワッと舞い降りてきた気がしたのだった。
 ご先祖様たちのご加護があれば、僕も、大切な人たちも、農園も、これから先、きっとなんとかやっていけるだろう。少なくとも、悪いようにはならないはずだ。そんな満ち足りた安堵感が、あの日以来の僕にはある。
 これだから本探しはやめられない。

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