ギリギリセーフで書き上げた理由
昨夜のこと。コンテスト『未来のためにできること』に応募したくて、数時間noteと向き合っていた。
応募締め切り最終日まで、書きたいと思いつつも全く思い浮かばなくて歯がゆい想いをしていたのに、急に書きたいことが思い浮かんだからだった。
カタカタカタカタ・・・
ひたすら集中してパソコンに向かっていた。
よし、あと少し!というところで、とある事情で、そのエッセイで応募することはやめたほうがいいかもしれない・・・と気づき、泣く泣く全削除。
時刻は23時。すでにクタクタだった。
眠たいし、もう寝ようかな・・・そんなことを考えて、パソコンの電源を落とそうとした。
でも、「書かなきゃ!」と強く思った。
ここで諦めればいいものを、どうにも諦めがつかなかったのだ。
賞をとりたいとか、そんな大それたことを思っていたわけでは全くなかった。
ここで諦めちゃいけない、どんなものでもいいから、入賞しなくてもいいから、これは応募しなくちゃいけないんだ!と、なぜだか思ったのだ。
きっと、今回のコンテストが祖父が長年愛読している文藝春秋が開催しているものだからなのだと思う。
以前(今年の1月)にも、文藝春秋と祖父に関するエピソードはnoteに書いていた。
あれから、9ヶ月。
今度は、『未来のためにできること』というテーマで、祖父のこと、そして子どものことを書くことにした。
思っていることを、話すように、バーッと無我夢中で打っていた。日付が変わる直前、11時50分過ぎに書き上げ、挿絵を選んだりハッシュタグをつけたりして、慌てて投稿ボタンを押した。時刻は11時58分。ギリギリセーフ。
すっかり疲れ果てて、わたしはそのままバタッと眠った。
翌朝、書いたものを読み返すと、気になるところがチラホラチラホラ・・・。
でも、応募したあとだし手直しできないよね・・・ま、いっか!と開き直ったりして。
わたしにとって、これは、結果ではなくて、ギリギリセーフでも、手直しできてなくても、想いをこめて書き上げたことに意味があるのだ。
わたしは祖父が大好きだ。祖父は今年で102歳だ。
家族としては、まだまだおじいちゃんと一緒にいたい。
敬老の日を迎えて。
102歳という長寿の大好きなおじいちゃんのことを考えずにはいられないのだ。
なかなか会えなくても、いつも想っていて。
いつもありがとう。
いつもおじいちゃんのこと考えているよ。
文藝春秋のこと、拙い文章だけど、また書いたよ。
おじいちゃんのこと、またnoteに書かせてね。
また会いに行くよ。
って。
ギリギリセーフでも、今回書けたのは、祖父のおかげなのだと思う。
「また、おじいちゃんのこと書いてるよ!」って思われたとしても、
自慢の祖父の話をまた書きたいと思っている。
【過去のおじいちゃん話】
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