生きている意味、生きる意味
辛い事が立て続けに起きたりして、もう消えてしまいたい。そんな風に思う時に、ふっと頭をよぎるのは、こんな事。
こんなに苦しい事ばかり。
何の為に生きているのか。
生きている意味を問うてしまう。
何故だか生きている事にやたらと執着してしまうのである。
そんな私であるが…
出かけようと車のエンジンをかけたところで、一匹の蚊が迷い込んでいる事に気がついた。私の目の前をプンプン飛んでいる。
次の瞬間、ほぼ習慣的にといった感覚で、蚊を両手でビシャッとやってしまった。
手のひらに張り付いている蚊を見て、ふと思う。
この蚊の生きてきた意味は何だったのか。
私にあっさりやられてしまったこの蚊の生まれた意味は何だったのか。
こう思うしかない。と近頃決めている。
生まれる事、生きている事そのものに意味を求める事はできない。ただ、それは偶然なのか必然なのかわからないけれど、命はそのようになっている事実だけがある。自然の現象の一部であり、それ以上でも以下でもない。
そうでなければ、蚊が生きていた命と時間は無かったも同然になってしまう。
私の懸命に生きている事そのものが無いも同然になってしまう。
これはまずい。危うく存在の意味がなくなってしまいそうな自身への危機感なのか愛しさなのか。私は生きている事に意味を持たせたくなる。
しかし、生きている意味を問うたところで、それは自然の現象の一部だと思う事にした私は、生きている意味を諦めざるを得ない。
そして、このようきこじつける。
そうか、生きている事とは、受動的なのだと。しかし、受動なまま行き長らえられる程、生き続ける事は容易ではない。
ならば、自ら考えるしかない。
どうしたら良いものかと日々考えると内に、ふと思いついた。
生きている事と、生きる事を切り分けて考えてみる事を。
生きている=生かされている
生きる=意思を持って生きる
この2つは似て非なるものだ。
生きている意味の問いなど脳裏から消し去り
生きる事にだけにフォーカスし、意味は自身で決めてしまえばいい。
言い換えれば、生きる事もその意味も自分次第。自分で選んでしまえばいいのだ。意味を決めた瞬間から、人生はその様に動きだす。
私にやられてしまった蚊。
蚊自身は、自分で決めた生きる意味を全うしながら生きていたのかもしれない。
そう考えると、いくらか私の罪悪感も減るような気がする。
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