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面倒くさい関係は長引かせずに、さっさと終わらせたい


『道草』というタイトルとこの物語の小説はどういうふうにリンクしているのかなあ、よくわからんなあと思った。
なんとなく感じるのは、登場人物たちはいろいろと遠回りしながら、先送りにしながらも、結局はやんなきゃならないのでやる、その過程が「道草を食っている」ダラダラしている感じだろうか、と勝手に思っている。

とうの昔に縁の切れたはずの養父がいきなり押しかけてきて世間話をしだす。
家を出てからお互い一切の交流を絶っていたのに、今更になって一体何の要件だろうと思っていると、金を工面してくれないかと迫る。
金をもらわないことにはテコでも動こうとしないので、仕方なく手持ちの金を渡したところ味を占められ、今度はまとまった金をくれとせびりに来る。
「お前にやる金はない」と早々に突き放せばいいものの、ウヤムヤに返事をして延ばしたことでいつまでも付きまとわれる始末。
自分だってもうすぐ3人目の子供が生まれようとしているので、お金に余裕はないはずなのに。
養父と言ってもいい思い出なんかなく、愛情をかけてもらうどころか、物のようにしか扱わなかった相手である。
一体どの面下げて家に押しかけてくるのか、恥というものを知れ、と状況であるにも関わらず、決断力のない健三は引き伸ばし引き伸ばしながら金を渡すことになる。
兄弟に相談したら「そんなやつ相手にする必要はない、金がもったいない」と当然の返答。
結局、最終的には「これ以上一文もやる気は無い」といって、手付金を渡して縁を切ることになったんだけども、それまでが長すぎた。
こういうところが「道草」を食っている感じがする。

お金というものは人間関係をややこしくするし、いきなり面倒にもなる。
特に親や親戚や友人など縁がある人からの申し出は断りにくい。
とはいえ、もうずいぶん長いこと会っていない人から久しぶり感を出しながら近づいてきて、「実はお金を貸してほしい」なんて言われたら普通引くだろう。
でも当の本人は必死感からそういうことまで想像がつかず、昔の好やあのときの恩を持ち出して迫ろうとする。
しかし一度出してしまえばターゲットにされ、再びせびりに来る。
どれだけ相手との縁があろうとも、お金のことは少し冷徹になるくらいが丁度いいと思うのだ。

3人目の子供を宿した妻との関係は微妙なものだ。
愛情がないわけではないが、自分の感情や思いを口に出すことがないので、相手に伝わりにくい。
しかも健三と妻、それぞれが腹の中が考えていることをなかなか口にしようとしないので、読んでいてじれったい。
お互いが「こうしてくれたいいのに」と相手に求めるばかりで自分からアクションを起こそうとしないので、すれ違いが起きる。
でもまだ妻のほうが健三よりは言葉に出しているような気はしている。
妻の体調不良のときにはそっと枕元に付いて看病したりするので、関心がないのではなく、愛情の表し方が下手なだけかもしれない。
それは子供の頃に愛情を与えてもらわなかった境遇のせいかもしれないし、男は余計なことを言わないという時代のせいかもしれない。
やりとりもストレートに行かないもんだから、夫婦関係も遠回りな「道草」を食ってしまっている。

強引に『道草』と関連させてしまった感もあるけれど、できれば遠回りしないほうが時間も労力も最小限に抑えられる。
ただ、「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起こったことはいつまでも続くのさ。ただ色々な形に変わるからひとにも自分にも解らなくなるだけのことさ」とあるように、嫌でも道草を食うのもまた人生だろう。

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