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結婚は幸せなのだろうか

キリスト教によくある誤解の中にクリスチャンはよき伴侶と結婚し、よき家庭を築き、よき人生を歩めと言うような認識を持たれている人が多少は居るかと思う。
しかし聖書のコリント人への手紙で7章でパウロははっきりと書いている。

「さて、この前の手紙にあった質問に答えましょう。もし結婚しないなら、それは良いことです。 しかし、普通の場合、結婚するのが一番良いでしょう。男はそれぞれ妻を、女も夫を持ちなさい。そうでないと、不品行の罪に陥る危険があるからです。 夫は妻に、妻が当然受けるものを、すべて与えなければなりません。妻もまた、夫に同様の義務を負っています。 結婚した女性は、もはや自分の体を自分の思いのままにする権利はありません。妻の体に対する権利は、夫にもあるからです。同様に夫も、もはや自分の体を自分だけでどうこうすることはできません。妻も、夫の体に対する権利を持っているからです。 ですから、互いにこの権利を拒んではなりません。ただ一つの例外があります。ひたすら祈りに専心するため、二人が合意の上で、一定の期間、夫婦生活から離れる場合です。そのあと、二人はまたいっしょになるべきです。それは、自制力の弱さにつけ込むサタンの誘惑を避けるためです。 私は、結婚しなければならないと言っているのではありません。ただ、結婚したければ、してもかまわないと言っているのです。 私の願いは、だれもが私のように、結婚しないでもやっていけることです。しかし、それは人それぞれです。神様は、ある人には、夫となり妻となる恵みを与え、ほかの人には、独身のまま幸福に過ごす恵みを与えておられます。

さて、独身者と未亡人にひとこと言いますが、もし私のようにしていられるなら、独身のままでいるほうが良いのです。 しかし、もし自制できないなら、ためらわずに結婚しなさい。情欲を燃やすよりは、結婚するほうが良いからです。」

私が考えるに世の人には誰かと一緒でなければ本当に苦痛である人と逆に誰かと一緒に居続けることが本当に苦痛な人がいる。私は後者である。様々な人生の葛藤もあったし良き出会いがなかったわけでもないし、また一生懸命探してみたこともあった。しかし今の自分のままで居られる結婚など存在しないのである。
何故なら、結婚とは互助契約であってお互いを助け合う事を前提に成り立っている。しかしこれは結果として一方が一方に頼りすぎる状態が往々にして生まれる。実際これのせいで多くの男女が離婚に至ってるように思う。
しかしどんな人間であれ、自分自身にとって完璧ではない。ゆえに結婚すれば必ずどこかライフスタイルとその人を合わせるという事が求められる。もしくは一方的にその人を自分に合わせさせるという支配が発生する。

私は誰も支配したくない。また支配されたくもない。

自由であるという事は孤独であることを受け入れることでもあるのかも知れない。孤独は時として辛いものだが多くは私を楽しませてくれるし安らぎを与えてくれる。むしろ他人といる時ほど相手に配慮して様々な事を考えて行動せねばならないのは苦痛に他ならない。

私は特殊なケースなのかもしれないが他人といる幸せがあることも知ってるがそれよりも一人でいる幸福が自由がそれを上回る。誰かと居ることに何度かチャレンジしたし、今もそれにチャレンジしてみようかと思う瞬間もある。しかし心の本能がそれを拒否する。

この時代に独身を選べるというのはとても幸せな事であると思う。何故ならもっと危険な地域に生れたり危険な時代に生れていたら否応もなしに結婚せねば許されなかったからだ。結婚を拒めばコミニティから排除されるかもしれない。時代によっては所属するコミニティから排除されることは非常に危険で殺されるかもしれない。もしくはより過酷な環境で強制労働させられる未来があっただろう。今ここに生れたことは神に感謝してもしたりない想いである。

私は幸せなのになぜそれ以上を求めようとするのか。

人間と言う生き物の果てしない業がそこに在るのかも知れない。

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