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文久の改革における助郷制度の意義

拙作「鬼と天狗」の時代背景には、「尊皇攘夷運動」の盛り上がりがあります。さらに、たびたび鳴海が守山藩の三浦平八郎と対峙するきっかけとして、「助郷すけごう制度」も取り上げてみました。
各種の助郷免除運動に鳴海が巻き込まれる設定はさすがに創作上の出来事なのですが、郡山で起こった助郷免除運動そのものは、史実として記録が残されています。

ところで、「文久の改革」や「助郷」とは、一体何なのでしょうか。


文久の改革とは

まず、幕末期に起こった幕政改革として、「文久の改革」の概要を押さえておかなければなりません。
文久の改革とは、文久2年(1862年)、公武合体派主導で行われた幕政改革。これは大きく分けて人事改革と制度改革があります。
人事改革面では、将軍後見職や京都守護職の役職創設があります。前者に就いたのが水戸藩出身の一橋慶喜、後者の職に就いたのが、会津の松平容保でした。
一方、制度改革としては

1. 洋学研究の推進
2. 軍事改革
3. 参勤交代の緩和

が挙げられます。
1については、それまでの蕃書調所を改めて洋学調書とし、洋学研究を梃入れして進めようというもの。その一環として、幕臣である榎本武揚や西あまねをオランダなどに留学させました。
2は、幕府陸軍の創設や西洋式兵制の導入、兵賦令(旗本から石高に応じて農兵もしくは金を徴収する)の発布が行われています。
そして、助郷制度に関連してくるのが、3です。これは、

• 大名の参勤を3年に1度とし、在府期間も100日に緩和
• 妻子はどこにいてもお構いなしとなった

というもの。参勤交代そのものが撤廃されたわけではありませんが、改革の背景には、莫大な費用のかかる参勤交代制度の要件を緩和し、その分の費用を諸大名の国防力アップにつなげようという狙いがありました。
幕府制度確立以来の変革であり国内外に大きな反響を呼びましたが、裏返せば、それだけ幕府の威信が低下していたことをも意味します。

文久の改革の推進者

開国の頃から、幕府の内部は南紀派(井伊直弼を中心とする紀伊藩の慶福推しのグループ)と一橋派(一橋慶喜を中心とするグループ)で対立していました。その中で、一橋派である松平春嶽(福井藩)や島津斉彬(薩摩藩)などの雄藩のリーダーは、幕政改革の必要性を主張していたという背景があります。
もっとも、南紀派の領袖であった井伊直弼による安政の大獄で、改革運動は一時中断。ですが桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後は、再び薩摩の島津久光らが朝廷の尊攘派に働きかけ、朝廷からの勅使に圧力を掛けてもらうことで、幕閣らに改革を推し進めさせようとしたのです。
この建言が時の帝である孝明帝に受け入れられ、文久2年5月9日、勅使として大原重徳を江戸へ派遣することが決定しました。大原が持っていた勅書は、島津久光の意見を大幅に取り入れたものだったと言われています。

文久の改革と助郷

文久の改革の目玉の一つが、参勤交代の緩和です。これは、街道政策の一つである「助郷制度」にも大きな影響を与えました。
参勤交代の緩和に伴い、大名やその家族が帰藩するケースが増加。加えて、少し前から国防施策に諸藩も駆り出されましたので、そのための往来も活発化し、街道政策の見直しが迫られたのです。

街道筋には、宿場町が設けられていました。
二本松藩の場合、以下のような宿場町が挙げられます。下図は左から順に、宿場町名、前宿場町からの距離、次の宿場町名、そして当時の宿場町の戸数(寛永年間)。

福島県内で賑わった宿場町ベスト5
1. 白河 1,500戸
2. 二本松 1,000戸
3. 須賀川 700戸
4. 福島 700戸
5. 本宮もとみや 500戸

二本松は、福島県内の奥州街道筋において白河に次ぐ城下町として賑い、また、領地も広いものでした。領内の宿場町では、参勤交代に伴う大名の滞在費用や一般旅行客の落とす費用で、町の経済が潤った側面もあったのです。本宮や郡山は、その代表格といったところでしょうか。

助郷制度

各宿場町には、「伝馬てんま役」が課されていました。これは、主に街道沿いに土地を持っていた村ごと(宿場)に課せられた義務です。二本松藩の場合、本宮や郡山にその役割が振られていました。
街道筋ではいつでも書状や荷物を次の宿駅まで滞りなく届ける必要があり、そのための人手や馬を常に用意しておくことを義務付けられていました。各宿駅では、リレー方式で荷物や書状の受け渡しを次々に繋いでいきます。
さらにこの役割においては、公用の荷物や文書を運ぶ馬もしくはその役割を担う人足を「伝馬」、走って書状を届ける人は「飛脚ひきゃく」と呼ばれました。各宿場町にはこれらの役割の人が常駐していたことで、スムーズな旅行が可能だったのです。

宿場町の概要

宿駅の任務は、旅行者の休息と宿泊施設の提供です。
その賦役で働く人の費用(人夫の賃金)は原則無償か格安料金とされ、現地で働く人にとっては苦役とも言うべきもの。しかも参勤交代は概ね春や秋に集中していたため、農繁期と重なっていたこともあり、非常に負担の重いものでした。
また、宿場町では問屋場が伝馬役をまとめていました。各村の顔役がこれらの役割を担っているのも珍しくなく、郡山の場合、今泉氏がその役割を果たしていたことがわかっています。

宿泊施設についてですが、武士の旅行はいかなる旅でも「軍旅」であるという意味合いがあり、参勤交代がやたら派手なのも、この考えの影響でしょう。
大名・武士の宿泊施設は、これ故に「本陣」と呼ばれます。もっとも本陣に宿泊できる人数には限りがありますから、大名行列の人数が多すぎて全員を収容できなかったり、他家の行列とかち合って塞がっていたりする場合には、「脇本陣」で泊まることもありました。

一方、本陣・脇本陣を除いた一般客向けの宿泊施設は「旅籠はたご屋」と称します。これも厳密には、宿泊が主な目的である「旅籠屋」、そして宿泊も出来るものの遊女との交流が主な目的である「客屋(揚屋)」がありました。旅館の格としては「旅籠屋」の方が上だったのでしょう。郡山市史によると、文政6年には従来の旅籠に加えて、泉屋・佐渡屋・柏屋・常葉屋・足袋屋・小浜屋・山田屋が旅籠屋に昇格したという記録が残されています。

宿場町では営業役銭を藩に払って公用向けの「伝馬役」を引き受ける一方で、これら一般客向けの収入を得ることで、財政を上手にやり繰りしていたとのこと。
また、伝馬役になると、町屋敷地にかかる年貢が免除されるケースもあったようです。

助郷制度の改革

ですが年々旅行客や物流量が増え、また、幕命により各藩に海防掛が命じられるようになると、その人馬・物の往来に伴う宿場町の負担は、到底自分たちだけで賄い切れるものではありません。そこで生まれたのが、「助郷制度」です。

これは宿場町周辺・近隣町村に課されていた賦役で、いわば、臨時で人馬を提供していたピンチヒッター。村ごとに割り当てられ、近隣の宿場町で伝馬役の人馬が足りない場合、泊まり込みでの助っ人を命じられていたのでした。
たとえば二本松藩の場合、本宮を通行する大名は、25~26もありました。荷物の継立てのために、本宮宿では人夫80人、馬80疋(大抵人1人+馬一匹のセット)が常駐していなければならないのですが、これだけでは到底足りません。文久3年に仙台藩一行が本宮に宿泊した際には、1640人もの人数を引き連れていたというのですから……。

そこで、このような場合は、近隣町村10カ村に助っ人を頼みました。これが、助郷の仕組みです。二本松藩では「寄人馬よせじんば」とも言いますが、本宮の場合、宿駅常備の分も含めて、必要な人馬が200人200疋を上回る場合、助郷の命令が下されました。(定助郷とも言います)
これがなかなか大変で、荷物の運送は早朝から始まるので、宿駅から遠い村では、前日の夕方から宿駅で待機しなければなりません。しかも前述のように、参勤交代は春秋の農繁期に集中しています。そのため、時代を経るごとに金銭納付がメインになっていった宿場町もあったようですが、いずれにしろ、負担は避けられません。

それでも足りない場合

本宮では、例えば糠沢ぬかざわ組や玉ノ井組の村々、時には杉田組に助けを求めることもありました。距離にして十数キロ離れた町村にも助けを求めたのであり、これを「大助郷」と呼びます。

画像出典:シリーズ藩物語『二本松藩』(糠澤章雄/現代書館 2010.4.15)

明け方の荷継は「未明詰」、前日の夜に集合して荷継することを「夕詰」と言ったそうですが、いずれにせよ、かなりの負担です。

それでも本宮の場合はまだマシな方で、郡山の大槻組には須賀川(14キロくらい)、白河の入口である小田川おだがわ(32キロくらい)などかなり離れたところまでの大助郷が命じられていました。
この辺りになると、二本松領ですらありません。隣藩である「白河藩」の領地です。

お気付きでしょうか。大助郷ともなると、「藩」の枠組を超えて、遠方の手伝いに駆り出されていたケースも珍しくありませんでした。
この「助郷」「大助郷」の命令元は、実は幕府の「道中奉行」。実務は街道沿道の藩の役人(郡代、郡奉行など)が監督しますが、命令そのものは、幕府から出ていたのです。だから、平然と数十キロも離れたところに「助郷に行け」という無茶な命令が下されていたというわけです。現地事情を知らない人は、これだから……という、当時の嘆きが聞こえてきそうですね。
藩の役人としても、幕命には従わざるを得ません。これを拒めば幕府から叱責されますし、下手すれば藩の行く末にも関わります。

ですが、「無理なものは無理!」

……というわけで、幕府からの無理難題な大助郷要請が、「鬼と天狗」で出てきた「小原田騒動」や、「守山藩」の助郷免除騒動につながっていくのです。

ちなみに、小原田騒動(二本松領における助郷免除願い)の場合はどうなったかはっきりしていませんが、守山藩については、郡奉行である加納かのう佑蔵ゆうぞうが江戸に赴いてまで免除を働きかけるなど、割とアクティブな動きを見せています。しかも、どうも藩の役人が手心を加えて、わざと農民の越訴の見張りを甘くしていたっぽいですし。
もっとも、幕閣でも発言力が大きいと思われる、水戸藩関係者ならではの荒業ではありますが。

ですが守山藩が助郷を免除されたのは、恐らくこの文久2年に限ったものだっただろうと私は踏んでいます。
というのも、守山藩については元治元年に再び白坂(栃木との県境)への大助郷の命令が下されているのを、守山藩の年中日記(樫村日記)で確認していますので……。

まとめ

文久の改革における「参勤交代の緩和」は、必ずしも庶民にとって喜ばしいものではなかったと言えるでしょう。
実際、元治元年には、幕閣らの一橋慶喜への嫌がらせも込めて?参勤交代の制度が復活していますし。
私の住む須賀川にも、近隣(守山・三春・郡山など)から度々助郷の人らが来ていたことが分かっていますが、何だか当時の人々の肩の一つでも叩いて、労いたくなるのです。

<参考文献>
二本松市史4
郡山市史3
シリーズ藩物語『二本松藩』(糠澤章雄/現代書館 2010.4.15)
シリーズ藩物語『守山藩』(遠藤敎之・遠藤由紀子/現代書館 2013.8.1)

※鬼と天狗については、こちらからどうぞ!

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