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vol.64 川端康成「伊豆の踊子」を読んで

精神が気になっている二十歳の学生に自分を重ねて、小説の中に入っていった。時代は100年前、卑しい身分と蔑まれた旅芸人と、「孤児根性」という言葉を持った学生が、優しく触れ合っていた。

出会った旅芸人一家に、まっすぐだけど柔らかくて、切ないけれど明るくて、死の匂いもするけど、世間とは相容れない割り切りを感じた。

踊子と別れてからの学生の涙は、どういった涙なのだろうか。

この小説は、実際に川端自身が伊豆を旅して、「事実そのままで虚構はない」としている。また、「幼少期に残した精神の病患が気になって伊豆を旅した」と語っている。(「湯の島での思い出」・・ウィキペディアより)

作中にも「二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐えきれないで伊豆の旅に出てきているのだった」(p38)とある。

幼い頃からの別ればかりの境遇(3歳までに父と母を、7歳で祖母を、10歳で姉を、15歳で祖父を亡くして孤児となる生い立ちがある)をどう自分に入れているのだろうか。この14歳の踊子は、川端の心の中にいる、父母や祖父母や姉の面影と重なったのかもしれない。

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「甘い快さ」でこの物語は閉じている。なんだか優しい気持ちになった。あったかい気持ちにもなった。素直な気持ちもある。少し悲しい気持ちもあるかもしれない。いい小説だと思った。

この小説の締めくくりを書き留める。

「私は涙を出まかせにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろこぼれ、その後には何も残らないような甘い快さだった。」

昨日、「君が笑えば世界が輝く」と嵐が歌い、皇后陛下が涙したというニュースがあった。

「踊子が太鼓をたたけばお座敷が輝く」が、学生の涙を「甘い快さ」に変えたのなら、歓声を受けた雅子さまの涙も「甘い快さ」であってほしいと願う。

来年の夏、パラリンピックを観に伊豆に行く。修善寺にも寄りたい。障害のあるアスリートたちの姿はきっと、妻の涙を「甘い快さ」に変えてくれるかもしれない。

涙の心は、人とのふれあいで変わってくるのだろう。

ちょっと考えすぎか。

おわり

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