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短編小説「辛い」




 玄関の鍵を乱雑に扱う音が、リビングに微かに届いた。僕は今まで楽しませてくれたテレビの電源を消し、暖をとっていたコタツから抜け出すと急いでキッチンへと向かった。間もなくして玄関の扉が開き、「ただいま」という短いながらも、疲労を隠しきれてない声が聞こえた。妻が仕事から帰ってきたのである。




 妻はリビングに着くとスーツ姿のまま座椅子に腰掛け、足をコタツへと滑り込ませた。僕が急いで用意した夕食をコタツの上に並べ終える頃には、自宅に帰ってきた安心感とコタツの助力もあり、疲労の色も少し影を隠していた。しかし夕食を食べはじめてすぐに妻は、「やっぱり辛い」とポツリとこぼした。




 妻の発言は、彼女の視線の先にあるテレビが映している映像と、相容れない内容であった。つまり、その言葉の真意は妻の現状を指して出た言葉である。「そんなに辛いなら、どうする、もうやめる?」妻の横に座り、夕飯の感想を聞こうとしていた僕はその気持ちを堪え、彼女をおもんばかった。




 「いや、やめないけどさ……。本当に辛すぎるんだよ……。あなたに向かってこんな事本当は言いたくないんだよ。でも、ごめん。やっぱり辛すぎるんだ」妻はそこまで話すと、咳き込んだ。その様子を見て僕はすぐに立ち上がり、急いでキッチンへと向かった。そして食器棚から使い込まれたプラスチックのコップを一つ取り出すと、蛇口を捻り、水を入れた。




 「落ち着いたらでいいから、一旦これ飲んで」僕はコップを持ちリビングに戻ると、コップをこたつの上に置き、少し濡れている左手で妻の背中を優しくさすってあげた。妻は短い感謝を僕に伝えると、自分の右手で目を擦った。妻の涙を見て僕は何も声をかけることができなかった。そして、そんな自分は主夫として失格だと恥じた。




 「ごめんね、泣かないで。全部僕が悪いんだ。僕が好き勝手やってるから、君を泣かせる様なことになってしまっている。辛いよね。本当にごめん」僕は妻の背中をさする左手に、強い後悔の気持ちとを込めながら、ただ、静かに謝るしかできなかった。その後、リビングはテレビから流れる空気の読めない笑い声が支配していた。しばらくすると、まるでその支配を断ち切るかの様に、妻がふいにコタツの上に置いたコップを手に取ると、喉をゴキュゴキュと鳴らしながら飲み干した。




 「謝らなくていいから、次からは私のカレーは甘口にしてちょうだい。いつも言ってるけど、本当に貴方の作るカレーは私にはからすぎるのよ」まだ少し涙目な妻は、少し笑いながら僕に空のコップを差し出した。どうやらもう一杯のおかわりという意味らしい。母国の味をもっと堪能してほしい僕としては、水をあまり飲んで欲しくないので、どうしたものかと少し悩んだ。






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