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慰安婦 パンパン 特攻くずれ そしてそれぞれの思い 『あれよ星屑』

大好きだった『あれよ星屑』が完結しました。少し時間があいてしまったのですが、1巻が出たときに書いたレビューに、読み終えた感想を少し書き足しました。

高校時代に、ある教師に出会った。彼は特攻隊に志願したのだが、機体が故障して、結局終戦までに出撃せずに生き残った。1988年に60代だったので今もお元気にしているかどうかはわからない。僕は学校の勉強は真面目にやるほうじゃなかったのだが、この先生だけは強烈な印象が残っている。

先生は「私の人生で、昭和20年8月15日以降は余生になってしまいました」と初めての講義のときに話していた。友人たちが、特攻に出撃して亡くなっているので、「うしろめたさ」で自分の人生を投げ捨てるように生きている感じがした。色川武大さんの小説に「自分の人生に興味を失ってしまった人」がよく出てくるけど、まさにそういう人がその先生だった。

『あれよ星屑』の主人公の川島も、仲間を死なせたうしろめたさをひきずり、戦後の混乱のなかで「自分の人生を投げ捨てるように」生きている。すべてを戦争のときの指導者のせいにして、自分が無関係だといい切ってしまえる人より、自分のせいでないことにまで「屈託」を抱えて生きている人がぼくは好きだ。なので、川島の人生がどう完結するかが、連載当初から気になってしょうがなかった。

そして川島には「もう十分ですよ」って言ってあげたい、そんな気分で読み終えた。素晴らしい作品だった。

以下は、1巻を読んだときに書いたレビューで、新劇のような大胆な演出が新鮮な作品だと思った。

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●『麻雀放浪記』『仁義なき戦い』終戦直後を描いた物語の強烈な魅力

終戦直後というのは小説や映画で繰り返し取り上げられる時代で、傑作も多い。阿佐田哲也の『麻雀放浪記』や深作欣二の『仁義なき戦い』などにあらわれる、法律という境界線の向こう側の世界はあまりに魅力的だ。純粋な「弱肉強食」を生きる人間たちの自由さにあこがれ、敗者が野垂れ死んでいく姿に恐怖を覚える。

『あれよ星屑』もそんな終戦後すぐ、1946年の東京の焼け跡を舞台にして描かれる物語だ。現在からわずか70年程度歴史をさかのぼっただけにもかかわらず、私たちは、その時代の人間の言葉づかいや考え方を想像するのが難しい。なぜなんだろうと考えたことはないだろうか。

想像力が欠けている人間が歴史のように、小説以上に精密な想像力が必要なものと取り組むと、なによりもこれを用いて復元しなければならないのが過去の人間であるから、人間抜きの歴史でごまかそうとする。 そして歴史は人間が作るものなのだから、人間抜きの歴史などというものは実際にはあり得ず、ということは、我々が歴史の名で歴史でないものを与えられていたことに他ならない。(吉田健一『歴史の教へ方』)

これは吉田茂の長男で作家の吉田健一が書いた短いエッセイからの一節だ。戦前は「皇国史観」を語っていた人間が、戦後になると「人民の歴史」を語り始めたことに対する批判である。党派性丸出しで、戦後の価値観によって戦前を評価すること、戦前の価値観で戦後を堕落と評すること、その両方が、彼のいう「人間ぬきの歴史」ということなのだ。

なぜこんなことを延々と書いたかといえば、このマンガが、党派性で汚染された「人間ぬきの歴史」ではなく、まさに「人間の歴史」を描いたものだからだ。

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山田参助『あれよ星屑』1巻

●イデオロギーや主義ではなく、人間の感情を描いた『あれよ星屑』

慰安婦、パンパンガール、戦争で家族と引き離された浮浪児、命からがら日本へ戻った引揚者、出撃前に敗戦を迎えた元特攻隊、こういう人たちを、イデオロギーや党派性で曇った目で見たときに「人間の歴史」が見えにくくなる。

そんな戦中・戦後のアイコンが、人間らしい意思と感情をもち、いきいきと描かれるのが『あれよ星屑』の最大の魅力だと思う。

主人公の日本陸軍軍曹、川島徳太郎は、大陸で中国共産党のスパイを処刑するときの尋問のなかで、「われわれも死ぬために生きている」と発言する。自分が指揮した部隊のほとんど全ての兵隊が戦死し、死ぬために生きていた川島は生き残る。川島を救い出したのが、もう一人の生き残り、黒田門松だ。

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山田参助『あれよ星屑』2巻

作者の山田参助は、川島に「自分だけが生き残った後ろめたさ」を代表させ、黒田に「暮らしは貧しいけれども生きる喜び」を感じる大衆を代表させている。この作品の舞台になっている1946年に坂口安吾は『堕落論』を発表しているが、そのなかで、「堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ」と述べている。

坂口安吾は川島のような生き残りの兵隊たちに、「戦前の価値観」からの「堕落」によって「人間」として生きていくという希望を与えた。自分だけが生き残り、屈託を抱えて生きている人間にとって、「堕落」して生きていいというメッセージがどれだけ強く響いたかは想像するに余りある。

人間は愚劣な存在であるかもしれぬ。しかし愚劣さのゆえに人生を見捨てるか、あるいは愚劣さにもかかわらず、その愚劣さを引き受けるかによって、人生への態度は相当に異なるものになるであろう。(磯田光一『坂口安吾—人と作品』)

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山田参助『あれよ星屑』1巻

●政治的な主義主張は変わる。そのとき慰安婦が感じたことは変わらない

山田参助は慰安婦のような、極めて政治的な話題にも、この作品のなかで臆せず取り組んでいる。彼は、現在の視点から過去を断罪するような物語は描かない。『あれよ星屑』が描くのは、貧しさや戦争という大きな歴史の渦に巻き込まれたひとたちの感情だ。政治の主義主張というのはファッションと同じ、時代にあわせて移り変わっていくけれども、この作品が描く感情というのは、そう簡単に変わらない。

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山田参助『あれよ星屑』2巻

●戦中・戦後のことばづかいを再現した会話がすばらしい

この作品の面白さとしてもう一つあげたいのは、登場人物の言葉づかいだ。例えば浮浪児の少年が、カナヅチなので、「水泳のケイコをする」と言ったり、黒田が「サルマタ(トランクスのようなもの)」を縫ってもらって感激したときに「ガンスイ(眼水)」と言ったりする。

僕の祖父はもう亡くなっているが、川島や黒田と同じように華北で八路軍と戦っていたという。腕に貫通銃創があり、亡くなるまでその痛みがときどきぶり返していて、よくマッサージさせられた。明治40年代の生まれで、終戦時に30代で、川島と同世代だったので、祖父もこうした言葉をよく使っていた。戦争が終わったときには僕はまだ影も形もないけれども、祖父の影響で、こうした言葉が物語にでてくるだけで不思議な懐かしさを感じる。こうしたディティールの積み重ねもこの作品世界を分厚くしていて、何回も読み返したくなる。

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山田参助『あれよ星屑』3巻

あの戦争の時代を、イデオロギーや党派性を抜きにして、純粋に感情だけを描こうとした作品は極めて珍しいと思う。そんな作品を読みたいと思ったときは『あれよ星屑』のことを思い出してほしい。

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