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繊細で傷つきやすいのはきっと、心の弦がたくさんあるから

お久しぶりの投稿です…!
最近はすこしずつ、自分を取り巻く環境や状況が変わってきています。
そんな中でも、自分のペースを崩さないように頑張っている今日この頃です。

さて、今回はだいぶ前に「いつか記事にします!」といいつつ書けていなかった「心の弦」のことをお話ししたいと思います。




わたしはよく
「繊細」「考えすぎ」と言われます。
そして些細なことでよく傷つきます。

それを5年前くらいに元同僚の方に相談したら、「司馬遼太郎さんか誰かの受け売りなんだけど…」と、こんな言葉をくれました。


「人間の感情をピアノだとすると、人によって鍵盤の多寡がちがう。
鍵盤を多く持って生まれた人は、時に現実以外のことでも感情の音律が鳴って、その分だけ人生が感情的に豊富になる。

思わず感情的に涙を流してしまったり、何かに心を大きく動かされた時、この言葉を思い出すと、それが肯定されているような気持ちになって、心が楽になるんだ」

わたしは傷つくたびにこの言葉を思い出しては
「わたしの中でたくさん弦が響いてるんだぞ!」と思うようになって、少し心が楽になりました。




先日、母親の言葉に傷ついたことがありました。
何があってどう乗り越えたかの詳しい話は、以下の記事に載っています。(全4話ですが…笑)

わたしはよく、繊細で傷つきやすくて考えすぎてしまって…
そして人の言葉に影響されて流されやすいと思っています。
今まで、これは自分の弱みだと思っていました。

けれど実はこれは弱みではなくて「心の弦の本数が多い」からで、それは弱みにもなるし、逆に強みにもなるんだと思いました。

忘れないようにここに書き残しておこうと思います。
LINEの文を引用しているのでこれまた長いのですが…(笑)
よかったら読んでもらえたら嬉しいです☺️



というかそもそも、「心の弦」ってすごい抽象的な表現で、うまく説明できるか分からないのですが…


たとえば怒りっぽい人がいたとしたら、その人は弦の数が少なくて…

極端ですが、「喜怒哀楽の4本くらいしかない」とします。
だからなにか人から言われて自分が嫌な感情を持った時、「怒り」の弦しか鳴らないのです。


でも、心の弦の本数が多ければ多いほど、人から何か言われた時、同時に複数の弦が響きます。

怒りっぽい人と同じことを言われたとして、
自分が感じた嫌な気持ち…「傷ついた」「怒り」の弦が鳴るのはもちろんですが、

それ以外にもたとえば、

自分の考えや今までを振り返ってどうだったか、とか
いろんな人の立場からみた気持ちや考え、とか
その人たちの生きてきた環境や背景、立ち位置、
客観的にみて自分の考えや気持ちはどうなのか、

などなど…

「怒り」だけじゃない心の弦が一度に一斉に鳴ります。

それは、その人がそれくらいたくさんの弦(想像力)を持っていて、
自分だけでない他者を尊重してその立場でも考えようとするから。


周りから繊細だとか考えすぎだとかよく言われて落ち込むけれど、
言い方を変えれば「心の弦が多くて想像力がある」ということです。

心の弦が多いこと自体、悪いことではなくて、むしろ誇るべきことだとわたしは思います。

そもそも弦がない人にとっては、他の弦の存在にすら気づかないから、
知らないうちに人を傷つけたり、そのせいで人が離れていってしまいがちなんじゃないか…と思ったりしています。
実際そういう人を何人も見てきているし、筆頭が私の父なので…



「気づく」って、当たり前のようですごく高度な技だと思うのです。
そしてその力を持っている人だからこそ、自分自身が孤独を感じることがあったとしても、必ず誰かが見ていてくれて、助けてくれます。
弦を持っているからこそ気づけて、その力を自分ができる範囲で他の人のために使うすごさがあります。
だから、弦をたくさん持っている人が世界中の誰からも見放されるということはないと思うのです。


弦の数は人によって違うし、きっと生きていく中でどんどん弦の数は増えていきます。
逆に途中で鳴らなくなる弦や切れてしまう弦もあるかもしれません。

わたしは今ある弦も、これから出会う弦も、できる限り大事にしたいなと思っています。



弦が一度にたくさん響いた中から、自分の本当の想いや伝えたいことがはっきりわかれば、
それをサッと見つけて言語化して、相手に伝えられます。


たとえば、教員の話で申し訳ないのですが…
わたしは生活指導がとっても苦手です。
なにか事件(事件ってなんだ)が起こると、生徒を呼んで個別で指導をするのですが、
生徒に的確な言葉を伝える自信が全然なくて、いつもドギマギしてしまいます。


逆にわたしが「生活指導が上手だなあ」と思う先生たちを見ていると、
その子に一番合うであろう言葉を即座に選んで伝えていて…

これはきっと、ベストな弦をサッと選んですぐ言語化できているからで、
生活指導は対応の速さが求められるからこそ、わたしもそうなれたらいいのに…毎度思います。


わたしの場合、
たくさん響く弦の中にたしかに自分の本当の気持ちはあるのだけど、

弦の響く音量は全部同じくらいだから、「わたしの気持ちはコレ!」「一番伝えたいことはコレ!」と、
すぐ見分けがつきませんし、簡単に言語化できません。

分かるまで数日かかるかもしれないし、なんならこの弦の話自体、聞かされてから自分の中に落とし込むのに5年かかっています。


自分の気持ちは確かにあるのに、たくさん響くからこそ埋もれてしまいがちです。



そんな中、他の人から
「あなたの考えは絶対○○だよ!」
「○○したほうがいいよ!」

と言われると、
自分の中で鳴ったたくさんの弦のうち、そこの弦だけ強く響くようになります。

そうすると、もしかしたら自分の気持ちはその弦じゃなかったかもしれないのに、
「ああ、そうなのかも」と思ってしまいます。

これがいわゆる「他人の言葉に影響されがち」現象です。


他人にとっては提案の意味で言っていることも、
わたしは自分の本当の気持ちに価値も自信も持てないし、それを見つけるのにうんと時間がかかるから、探すのをあきらめたり強制的に切られたりして

無意識のうちに、自分の本心でないことを、これが自分の本心なのだと思い込んでしまいます。



私が実際にそれを感じたのは
先日母に「頑張れることこそがあなたの取り柄よ!」と善意で言われたときでした。

一見「がんばるのはいいこと」といわれると褒められているように思うのに、私はそう思えなくて、逆にすごく傷つきました。

なぜなのか自分でもよく分からなかったのですが、じっくり考えてみると
おそらく

一番影響されやすい母の言葉で、
わたしが今必死に探している「頑張る以外の自分の価値」が余計にわからなくなってしまったことに傷ついた
のだと思ったです。


母の言葉で、その弦だけ響きが強くなってしまう。

今せっかく頑張る以外の価値を他にも見出そうとしていたのに
「わたしには結局頑張ることが取り柄なのか。それでしかやはり生きられないのだろうか」

と、思いたくないのに思ってしまいます。
そんな自分も嫌になってしまったりして。

母のその一言は、わたしの心には強すぎて、反射で涙が出たのだと思います。
今までは鵜呑みにしていた母の言葉に、あの日初めて抗おうとした、自分の気持ちに気づいて大事にしようとした証だったんだと、今は思います。


”自分が一番大事にしたい弦がどれなのか、それを自分の意思で選ぶまでは、外からの影響は最小限にしたい”
と思ったのです。



たしかに人一倍頑張れることはなかなか全員ができることではないから、

他の人からしたら「頑張れるって取り柄だな、あんなに頑張れたらよかったのになぁ」と思ってくれる人がほとんどで、それはすごくありがたいことだし、
わたしも、頑張っている自分に心からイイねが押せるようになりたいです。


けれど今はその弦だけが響きすぎてしまって、自分が本当に大事にしたいものが霞んでしまっています。

わたしは、頑張る以外のいろんな選択肢を持って、これから生きていきたいです。

だからその言葉は今は、それぞれの心の中にしまっておいてほしい…



繊細なことを弱みだと思ってしまったら、せっかくの弦を「重いから」といって捨ててしまうかもしれません。
もしかしたら、いま捨てようとしている弦はあなただけが持っている弦なのかもしれない。
その弦があるから救われる人がいるかもしれない。

弱みなのか、強みなのか、それは実はどうでもいいことなのかも。

だからわたしは、自分が大切にしたい心の弦を見つけたら、たくさんの弦といっしょに自分らしく歩いて、自分らしく奏でられるようになりたいです。




心の弦の話が5年かけて今最新の答えにアップデートされたように、
きっと大元は変わることなく、月日や経験を重ねるうちに、いろんな人と出会ううちに、次第にアップデートされていくんだと思います。

人生ってきっとそういうことなんだろうなとおもいます。

アップデートされた自分が、この記事をみて
「いいじゃん自分」って思えていたらすてきだな。
とりあえず今は、今のわたしとぽてぽて歩けるように焦らずゆっくり生きようとおもいます。


またながくなってしまいました…!
ここまで読んでくださりありがとうございます!

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