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わたしと家族①〜わたしが頑張り屋さんになった理由〜

またまた投稿がお久しぶりになってしまいました…😭
2023年9月から休職している公立中学校教員です。先日、もう1年休職延長が確定したところです。
来年の今頃には、笑顔でわたしらしく、中学校のせんせいとして戻れているといいなぁ…。

さて、今はちょうど卒業シーズンですが、わたしも先日、あることから卒業しました。
今回はその話を未来の自分に向けて残しておこうかなと思って、書いたものです。
長いのでまたシリーズ化になってしまうのですが、少しでも読んでくださったらとても嬉しいです😌



わたしは休職中、いや…なんなら物心ついたあたりから、ずっとモヤモヤしていたことがあります。

それが、わたしの家族のことです。
わたしの家は、父・母・私・弟の4人家族で、最初はごくごく普通の家だなぁと思って暮らしていたのですが、

私が小学生のときあたりから
「あれ?なんだかおかしいぞ?」と思うようになりました。



わたしの母はずっと専業主婦でした。
父は、家から3〜4時間くらい離れた職場で働いていたので、帰ってくるのは週末の土日だけで、ほとんど単身赴任状態でした。
なので、母はワンオペでわたしと弟を育てていました。本当にすごい人です。


わたしが小学生の頃、母は友人に誘われて今の職場に出会い、そこで働くことになりました。
わたしも弟も応援しました。

けれど父は「共働きになってしまったら子供たちがかわいそうだ」という理由で、母の願いを無に返しました。

結局母は、父に従わずに仕事を始めました。
母は仕事でも周りの人から頼られ、速攻でリーダーに昇格して、休みなく週7で働きながらしっかり家事も子育てもする、自他共に認めるスーパーサイヤ人になりました。
わたしは、そんな母にずっと憧れていました。
「お母さんみたいな人になりたい」と頑張るようになったのもこの頃です。


一方で、そのあたりから父と母の間は価値観の違いから対立し、家庭はどんどん冷えきっていきました。



ちょうど同じ頃、父の実家はごたついていました。
父は3人兄弟の末っ子で、上に兄と姉がいました。わたしにとってのおじいちゃん(父の父)は、もう他界していて、
おばあちゃん(父の母)は、今も存命していますが、父を含め他の兄と姉も煙たがっていました。


だから、祖母の介護をどうするのか、祖母の生活や介護にかかるお金を誰が工面するのか、遺産をどうするのか、祖母が今住んでいる田舎の持ち家をどうするのか、誰がそのゴミ屋敷を片付けるのか、祖母と誰が連絡を取るのか…
話し合いをしていたのがこの頃です。

わたしたちが住む家に、たびたび父の兄弟と祖母が集まっていました。
わたしも弟もいる場で、怒号や泣き叫ぶ声が飛び交う、大人の喧嘩を毎度目の当たりにしました。

誰もやりたくないからなすりつけ合うような感じで、話し合いにもならなくて、
嫁であるわたしの母が仲裁に入っていました。

結局、介護にかかるお金はわたしの父が出すことになり、祖母は老人ホームに入ったのですが、
父も、その兄姉も、祖母と連絡をとるのを拒んで、ことは丸く収まらず…

結局父はお金だけ払って、わたしの母に祖母や介護施設との連絡や、お金を管理をなすりつける形になりました。
なんで自分たちのお母さんの面倒を、他人に押し付けて平気なんだろう?と疑問でなりませんでした。


母はわたしたちに、父やその家族の愚痴をこぼしながらも、嫌々やっていました。
家事も育児も仕事もこなして、さらに父の家族の面倒まで見れてしまうスーパーサイヤ人。
それがわたしの母です。




父は、オモテの体裁は良く見せて、家では「俺が養ってやってるんだ」という権力でもって、家族を自分のテリトリーに入れようとする人でした。
いわゆる昭和の親父のような。
だから、自分の思い通りにいかないことがあれば、強い力と言葉でねじ伏せようとしました。


わたしの母に対しては、自分の価値観を押し付けて、自分の手中におさめようとしていました。
対等であるという概念が、そもそも父にはないのです。
父にとって、母は駒でしかないのです。


弟に対しては、特に厳しく接していました。
長男だったからなのか、自分と同じ男だったからなのか、自分が昔同じ扱いを受けていたからなのか…。
弟は大学進学を望まず、高卒で就職して独立する道を選ぼうとしました。
なのに、その志をへし折って無理やり予備校に通わせました。弟はそれが原因で部屋に引きこもってしまいました。
弟の声に耳を貸さない。
今で言う虐待にあたるようなこともたくさん、父はしていたと思います。

わたしは、父が理想とする子供になることで、厳しい叱責から逃れていました。
ゼロではなかったけれど、母や弟に比べれば全然マシです。



やがて母は、自分とわたしたち子供2人を父から遠ざけるために、同居はするものの部屋を分けて扉を閉め切りました。父との対話を諦めて、徹底的に無視を貫くことで心を完全に父から離しました。
弟は就職して家を出て、父と決別しました。


わたしは父が許せませんでした。
母と弟を、自分の思い通りに縛りつけようとしたこと。
そのために、心ない言葉を浴びせて、権力をふるって脅したこと。
自分のことしか考えていないから、結果として母や弟の大事な時間を奪ってしまったこと。


わたしは自分ではなく、母や弟に対しての父の言動に怒りを持ってしまったんです。




けれど父がここまで育ててくれたことは事実だし、母と価値観が違うだけであって、父の考え自体は間違っていないとも思いました。
弟に大学を勧めたことだって、子供の未来を鑑みて選択肢の幅を広げたほうがいいという気持ちがあったはずです。
だからなんとなく父を見捨てることができなくて。

家族みんなが幸せになるにはどうしたらいいのか。
自分の立場でできることを必死に考えて…

「母や弟の声は父には届かないけれど、
わたしの声なら、頑張れば届くんじゃないか」
という結論に至りました。


父と対等に話せるようになりたい。
母や弟への言動が間違っていたことを伝えたい。

そのために、父が求めていることを完璧にこなして、一人前として認めてもらおう。

「養ってもらっている」側じゃない人間になろう。


わたしはそんな途方もない目標のために、頑張りすぎるくらいさらに頑張るようになりました。
頑張って大学に進学して、教員になって、家を
出て独立して、
客観的に父と母の価値観と向き合った上で、自分の言葉で父と対話をしようとしました。


おかげで一定の成果は出たし、頑張ったからこそ得られたものもたくさんあります。

けれど、頑張るという生き方しか知らないわたしは、ブレーキの止め方もわからないまま突っ込んで壊れて、休職してしまいました。
父と対話するゴールは、また一段と遠のいてしまいました。


自分のためでなく、他人のために怒って頑張ると、結局自分の中に落とし所がないことに気づいてしまいました。だって、怒りの感情はその人自身のものだから。
わたしが怒ったところで、父の矛先は母と弟です。当事者である2人は怒って当然だし、父に対する自分の感情をどうするか、自分で決められます。
そして2人は自分のやり方で、その怒りに蹴りをつけました。
でも当事者でないわたしの怒りの落とし所はどこにあるのでしょうか。わたしの怒りの言葉なんて当事者に比べたら軽くて、父に伝えたってなんの説得力もありません。

同時に、自分には限界があることにもはっきり気づいてしまいました。母のようなスーパーサイヤ人にはなれないこと。

頑張って頑張って頑張った先の、成れの果てがこれかと。




わたしは、なんのために頑張ってきたんだろう。

頑張ることしかできない自分は、「頑張る」という方法を取り上げられたら何も無くなってしまうんじゃないか。
自分がわからない。
他人軸でしか生きられない自分が無価値に思える。

頑張る以外に、これからどうやって生きていけばいいんだろう。


こんなことを考えては自分を責める毎日。
頑張ってきたことを褒められない自分すらも、嫌いになる毎日。





そんな中、3月のはじめ、久しぶりに母と弟に会いました。
話の途中、わたしは母の言葉に相当なショックを受けて、2人と別れた後涙が止まらなくなってしまいました。
そのあと、家で丸2日泣き叫びました。

あんなに大好きで憧れた母から出た言葉で、
今まで無意識に溜まっていたモヤモヤが、負の感情になって爆発してしまったようです。

つづく…
(長くてすみません…ここまで読んでくださりありがとうございます!)

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