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コーヒーと紅茶

コーヒーは好きだけど紅茶は苦手という人がいる。

紅茶は好きだけどコーヒーは苦手という人がいる。

コーヒーも紅茶もどちらも好きという人がいる。

コーヒーも紅茶も苦手という人がいる。

コーヒーにしろ、紅茶にしろ、好きでも苦手でも嫌いでもないという人もいる。

僕はコーヒーは好きでよく飲むが、紅茶はあまり飲まない。

紅茶が苦手とか嫌いという訳ではない。

ただ、なんとなく、飲まないだけだった。

昔、ある人から、MARIAGE FRERESのマルコポーロという紅茶をいただいたことがあった。

箱を開けると、繊細な白いモスリンコットンに包まれた紅茶葉の小さな袋が、たくさん詰まっていた。
まるで、綿花の妖精たちの秘密の隠れ家のようだった。

それは想像よりも味も香りも申し分なく、ふくよかな紅茶をいただくひと時は、ささくれだった気持ちも穏やかになり、優雅で至福の時を過ごすことができた。

モスリンの袋がなくなりそうになった時、同じ人から、MARIAGE FRERESの違う紅茶をいただいた。

ラブストーリーという名前だった。

なんともロマンチックな名前だと思った。

マルコポーロとは味も香りも違っていたのを覚えているが、随分昔のことなので、どう違っていたかはあまり覚えていない。

かろうじて覚えているのは、心がちくちくずきずきと痛い時に、よくその紅茶をいただいていた、ということだけだ。

それからしばらく経って、その人から、コーヒー豆をいただいた。

行きつけのお店で買ったというそのコーヒー豆は、とても美味しいのだと教えてもらった。

コーヒーが好きだと聴いていたから、とその人は言っていた。

僕はその心遣いがとても有り難く、そして嬉しかった。

僕はコーヒー豆を挽いたことがなかった。どんなコーヒーミルを買おうかと思いながら、感謝の気持ちをその人に伝えた。

本当に伝わっていたかどうかは、今となってはわからない。

それから程なくして、僕にコーヒー豆を贈ってくれたその人は、いなくなった。

跡形もなく、という訳ではなかったが、僕の目の前からは消えてしまっていた。

それは随分前のことだ。

今僕は、Blendyというインスタントコーヒーを愛飲している。

時折、その人がプレゼントしてくれたコーヒー豆が入ったガラス瓶を眺めている。

捨てたら良いのだろうが、犬的性格の僕は、なかなか物を捨てられずにいる。

きっと香りも味も飛んでしまっているだろう。

僕は安楽椅子に腰掛けて、マタイ受難曲を聴いていた。

すると、窓ガラスを、こんこんと叩く音が聴こえた。

なんだろう。

僕はよっこらしょと椅子から立ち上がって、窓に向かった。

外は嵐だった。

別に珍しくもない、いつもの夜だった。

だから、きっと小枝か何かが窓ガラスに当たっているのだろうと思っていた。

カーテンを開けると、窓の向こうに、良く知った顔があった。目が合った。僕は素知らぬふりをしようとした。

こんこん。

再び窓ガラスが叩かれた。

僕はやれやれとため息をついて窓を開けた。

辛気臭い顔をしているぞ。

伯父さんの第一声だった。

そっちは濡れ鼠みたいだよ。

嵐だからな。これが正装だ。

よっこらしょと言って、伯父さんは窓から部屋に入ってきた。

だらだらと服から髪から、伯父さんの身体中から水が滴り落ちた。

あーもう。僕は雑巾とバスタオルを取りに向かった。

いやあ、疲れた。

伯父さんは、さっきまで僕が座っていた安楽椅子に、どかっと座った。

今日はたくさん、コキュートスまで連れて行ったぞ。

僕は床を拭きながら尋ねた。

そんなことを話すために来たの?

そんなこととはなんだ。そんなこととは。

コキュートスなんて、僕には関係ないよ。

何を言ってる。お前が死んだら俺がそこに連れていかなきゃならん。これからお前が行く場所だぞ。

あーそうですか。

そうとも。だから、お前にも関係ある話だ。

それより、これで髪拭いてよ。

僕はバスタオルを伯父さんに投げて、床を拭いた。

全くお前は何んにもわかっとらん。

そうだね。

なんだこの曲は。

マタイ受難曲だよ。

辛気臭い。お前はこんな曲が好きなのか?

そうだよ。

何か他の曲をかけてくれ。

僕はアレクサに伯父さんの好きな曲かけて、と声をかけた。

民謡が流れてきた。

おいおい。俺を早死にさせる気か?

え?好みじゃなかった?というか、伯父さん死ぬことあるの?

俺は民謡と蜘蛛がアレルギーなんだぞ。死んだりはせん。というか、死ねん。

だよね。

いいから、別の曲をかけてくれ。それから、何か酒をくれ。

僕はもう一度アレクサに伯父さんの好きな曲をかけて、と声をかけた。

80年代の洋楽が流れてきた。

まあ、ましだな。

僕は伯父さんにグラスを手渡した。

何だ、これは?

焼酎のロックだよ。

お前は焼酎なんか飲んでるのか?

焼酎なんか飲んでるんだよ。

もっとましな物を飲みなさい。

たとえば?

ブランデーが良いぞ。

飲まないなあ、ブランデーは。

こんな安楽椅子に座って飲むなら、ブランデーが相応しいぞ。

考えとくよ。

考えるんじゃない。行動しなさい。

わかったわかった。

わかったは一回と習わなかったのか?

はいはい。

はいも一回と習わなかったのか?

はい。わかったよ。

よろしい。なかなか聞き分けの良い子だ。

子供じゃないし。で、今日は何の用なの?

用がないと来ちゃいかんのか?

そういう訳じゃないけど。こんな嵐の夜に窓から来るなんて、何か用事があったのかなって。

可愛い甥の顔を見るだけじゃいかんのか?

やめてよ。心にもないことさらっと言うのは。

いやいや、心の底から思ってるぞ。

それは、僕が死んだら、コキュートスに連れて行けるからでしょ?

その通り。なんだ、お前、良くわかってるじゃないか。

で、それはいつなの?

それは教えられん。

でも行き先だけは決まってるんだね。

そうだ。

誰が決めたの?

俺より偉い人だ。

伯父さんより偉い人?

俺より遥か上のずっとずっと偉い人だ。

そうなんだ。伯父さんより偉い人が決めたんなら、悪い気はしないな。

何だその言い草は。

だって、伯父さんが決めたんなら、なんとなく適当に決めたんじゃないかって気になるけど、遥か上の人なら、仕方ないって言うか、諦めもつくじやない?

なるほど。いやいや、適当に決めたというところが気に入らん。

適当に決めたなんて言ってないよ。なんとなく適当に決めたんじゃないかって気になるって言ったんだよ。

俺は適当に決めたりはせんぞ。

そうなの?

そうだ。

俺の甥だからな。ちゃんと考えて、決める。

ふうん。

お前も疑り深いな。

僕はシベリアから帰国したばっかりなんだよね。小屋もあのままだしさ。

だから、小屋は燃やせば良かったのだ。

嫌だよ。思い出なんだから。

その犬的性格はどうにかならんのか?

シベリアにはもう戻らないんだから、小屋はあのままで良いんだよ。

お前はこれからどうするんだ?

さあ。

さあとはなんだ。さあとは。

まだ何にも考えてないよ。

考えなさい。マタイ受難曲なんか聴いてないで。

そうだなあ。また旅に出ようかな。

旅は良いぞ。

帰ってきたばっかりだけど。

根無草は素敵な生き方だ。

根無草になる気はないけど、ふらっと出かけるのも悪くないね。

浮浪雲的な生き方だな。

それ、ジョージ秋山の漫画でしょ。

おねえちゃん、あちきと遊ばない?

それ、雲のセリフだよね。

お前もそんな風に生きなさい。

考えとくよ。

考えるんじゃない。行動しなさい。

おねえちゃん、あちきと遊ばない?なんてはすぐには言えないけど、頑張るよ。

頑張るもんじゃない。努力するものでもない。

ふわふわと生きるよ。

そうしなさい。

あちきは流石に無理かな。

あちきってところがポイントだぞ。

そうなんだ。

チャラい感じが表れている大事な言葉だ。飄々と生きなさい。

うん。そうするよ。

よしよし。いい子だ。

子供扱いするのはやめてよ。

何を言う。お前はいつまでも子供だ。

わかったよ。

我が甥ながら、お前は本当に未熟者だな。

そうだね。

さてと。そろそろ帰るか。

さようなら。

その言葉は未だ早いぞ。

あ、ごめん。

焼酎うまかった。ご馳走になったな。

どういたしまして。

旅に出たら、おねえちゃん、あちきと遊ばないって言いながら、ふらつきなさい。

そうするよ。

よしよし。

伯父さんは安楽椅子から立ち上がると玄関まですたすたと歩き、ドアを開けて帰っていった。

窓から入ってきて、玄関から帰るところが伯父さんらしいと思った。

スピーカーからデスペラードが流れていた。

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