雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【15】

ふるさとは 遠きにありて思ふもの
そして 悲しくうたふもの

室生犀星の小景異情詩を、何故か時々思い出す。

よしや
うらぶれて 異土のかたいになるとても
帰るところにあるまじや


うらぶれてもなければ、フーテンでもないけれど、故郷は帰るところでではないと思っていた。

高校を卒業してから、一度も故郷に帰っていない。

実際に遠いから、帰るとなると一苦労だ。

帰るとなると、寝台列車で帰ることになる。

飛行機という手段もあるが、空を飛ぶことに抵抗があった。

食堂車で料理を作りながら、故郷の駅を通ったことは何度もあった。

ただ、降り立ったことはなかった。

いつも通り過ぎるだけだった。

故郷には、今も両親と姉がいるだろう。

帰ったところで、所詮、初対面の人間として扱われるだろう。

そう思っていた。

子供の頃のままごと遊び。

近所に住んでいた明代という女の子と、時々ままごと遊びをしていた。

ふと、そのことを思い出して、今はどうしているのだろう、となんとなく気になった。

ある日、食堂車の仕事の割り振りを調整して、故郷の駅で仕事を上がって非番となるようにした。

どうしてそんなことをしたのか、その時も今もわからない。

夕方に発車した列車は、夜を徹して走った。

車窓に見えるのは田圃や畑、そして山の風景だった。

時々、海が見えた。

時々、街が見えた。

ポツポツと、地面にへばりついた小さな集落が、後ろに流れていった。

暗い夜の海が見えた時は、心の底を覗き込まれているような気がした。

眼を背けたくてもそこに釘付けになった。

日が昇り、朝になって、食堂車では朝食の支度が始まった。

営業時間になると、乗客たちが、朝食を取りにやってきた。

列車は、朝の通勤客が並んでいる地方駅を通り過ぎていく。

朝食を取りながら、乗客たちはそれを眺めていた。

目が合ったら、お互いどんな風に思うのだろう。

寝台列車は走り続け、やがて、列車は故郷の駅に近づいてきた。

僕は仕事を上がるとコンパートメントに戻り、支度を整えて、ボストンバックを手に持ち、降りる準備をして、デッキに向かった。

列車は速度を落として、ゆっくりと止まった。

僕は車両から降りた。

久しぶりの故郷の駅だった。

駅の近くにある製紙工場の煙突。独特の匂い。

吸い込んだ途端に記憶が揺さぶられた。

発車のベルと共に、寝台列車が動き出して、走り去っていった。

戻れなくなった感じがした。

実家に向かうには、ここからローカル線に乗り換えなければならなかった。

時計を見ると、少し時間があった。

僕はKIOSKでガムを買うとジャケットのポケットに入れて、ベンチに座って列車を待った。

汽笛が聞こえた。

見ると、三両編成の小さな列車が、ホームに向かってきた。

見覚えのあるクリーム色とオレンジのツートンカラーの車両。

これに乗るのだ。

列車はホームに停車して、ドアが開いた。

僕は乗り込んだ。

行商風の老婆や背広姿の男が数人、同じ車両に乗り込んできた。

学生服姿の高校生が、その後に乗ってきた。

空は晴れていた。

羊雲が所々に浮かんでいた。

風が吹いていた。

長閑な空気が辺りに漂っていた。

僕はちらっと腕時計を見た。

古い形見のIWCAの腕時計。

何かを思い出そうとしていた。

そろそろ発車の時刻だった。

ホームに発車のベルが鳴った。

ゴトンと車両が揺れて、列車が走り出した。

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