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皆伝 世界史探求07 BC500年-BC334年

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皆伝07 BC500年-BC334年 世界年表 - コピー

□□アフリカ

北アフリカのマグレブ地方(日の沈む土地=西部)にはカルタゴが存続しています。
サハラ以南のアフリカにはヌビア(現スーダン)にメロエ王国
が存続しています。

□□ヨーロッパ

BC500年頃、グレートブリテン島に鉄器製造技術が伝播しました。

□□イタリア半島
北部にケルト系のガリア人がいます。
ケルトには神官兼司法を担当するドルイドがいます。
オーク(樫の木)を神聖な木として信仰しています。
その南にエトルリア人がいます。

中部に都市国家ローマがあります。
エトルリアの支配から解放されてすぐのBC509年に貴族共和制が成立しました。立法権と行政権を貴族が掌握しているのはなぜかというと、そうした役職は都市国家のためになる名誉ある仕事なので無給なんです。だから、その間働かなくてもいい人だけが就任できるんです。
立法は元老院(セナトゥス。300人)が行います。元老院議員は終身制。つまり、任期がありません。知識と経験を蓄えられるので、実質的に支配権を持つようになります。21世紀には英国のsenatorが上院議員と翻訳されます。元老院/senatusが由来です。無給の名誉職です。
行政は二人いるコンスル(執政官/統領)を筆頭としています。無給の名誉職です。首相のようなもので、軍の最高指揮官でもあります。緊急時には、そのうちの一人が独裁官(ディクタトル)になることもあります。任期は一年で、当初は再選は認められていませんでした。

詳細が不明で、共和制の時代には些細な権限だけとなったクリア民会は別として、民会は二つあります。
トリブス民会。住んでいる選挙区ごとに1票を持つグループとされ、貴族も平民も参加します。トリブス会議(tribes)とも言います。tribeは部族を意味します。ローマには最初期に三部族があったそうで、
先生によると
「triはラテン語で3を意味する。リビアにトリポリ(三つのポリス)という都市がある。triの派生語として、ポルトガル語のtrês スペイン語のtres イタリア語のtre フランス語のtrois ドイツ語のdrei 英語のthreeがある」
そうです。
兵員会/ケントゥリア会議。王制時代からという伝承がありますが、実際は共和政以後に設置されました。18ある百人組(ケントゥリア)に所属しない外国人・奴隷・無産市民は参加できません。一人一票ではなく百人組ごとに一票だから、百人組の中で人数が多い貴族と富裕層の意見が百人組の代表意見になるし、兵員会の意見としても通ります。コンスルを選出します。
2つの学説があります。
①貴族100人と富裕農民93人で一組を構成。つまり、貴族の意見が割れなければ、富裕農民に多数決で勝てるので、必ず意見が通ります。貴族は1800人いて、18組に分かれて所属します。
②18組の騎兵団(貴族だけ。一組が100人で1800人)、80組の重装歩兵団(ここまでは富裕層)、94組の軽装歩兵団に、無産市民は1組。全193組。
貴族と富裕層で98組になるので、多数派なんです。協力すれば98対95で貴族と富裕層の意見が通ります。
ケントゥリアはセンチュリーcentury/百を意味するのです。たぶん王政時代は①の形から始まりました。共和政時代に人口が増えて、もしかしたらアテネのように最初は貴族と富裕層だけの集住だった都市が市域の拡大により平民が市民化した、共和政だから参政権を求めるようになった。そして②になったのではないでしょうか。
大きな権限を持つ議会として、元老院と兵員会の二つがありますが、上院下院を持つ西欧の議会制度はここに由来するのかもしれません。現代にまで継承されているとすれば、とっても大切です。

平民(プレブス)は主に小土地を所有する農民のこと。
聖山事件-BC494年(とBC449年)、平民がローマ北東の山(聖山という名前のようです)の中に立てこもりました。元老院も兵員会も貴族と富裕層の意見が通る仕組みになっているので、
「我々の言い分も通るようにしないと税金を払わんぞ!」と、ローマ最初期の Remnes、 Tities、 Luceres の3部族(tribe)が主張しました。
これでは貴族も困るので、翌BC493年、平民の代表として護民官二名を設置することを許可しました。元老院の法案に対して、拒否権を持つんです。
BC472年、平民会/プレブス民会が成立します。議決権はなく、国/ローマのことは元老院が決めるので、平民は口出しできません。平民会は平民同士の争いなどを治める機関にすぎません。
 
先生は「この後に、BC287年のホルテンシウス法で、元老院の承認なしで平民会は決議ができるようになり、民主化の完成と言われる。こうして平民が権利を勝ち取っていく流れは、人類にとって大切だからよく理解する必要がある。ローマは建築と法律が人類史に貢献しているので、ローマの法の集大成はいつ、誰が、どうやってということを理解する必要がある。AD529-533年、ユスティニアヌス帝の東ローマ帝国で、「ローマ法大全」として完成することを理解しておく」と言っています。

BC450年十二表法-ローマ初の成文市民法。慣習法の成文化で恣意的な貴族政治に歯止めをかけます。平民会が貴族に対する抑制権を獲得したと理解されています。十二枚の銅板に記されたそうです。
BC445年、カヌレイウス法-貴族と平民の通婚の自由が成立。それまでは同席も許されなかったのに。これで争う材料が減ったので、対外発展へ向かっていきます。

都市国家から領域国家へ移行し、BC396年エトルリアの首都ヴィー(ヴェイイ)を陥落させ、初の植民地(コローニア)を設置します。のちの属州ではなく、植民市/植民地です。
ギリシアの植民市は母市から政治的影響を受けない経済拠点でした。ローマの植民市は本土から貧民(のちに兵)を派遣して、自治権を与えます。ローマへ納税し、ローマ市民権もあります。飛び地のような感覚ですね。
また、既にある都市を征服して、軍事的拠点として軍事同盟の盟約を交わします。軍事義務があって、ローマへの課税はありません。違う国なのでローマ市民権は持ちません。これを同盟市と言います。但し征服地同士が結束することを怖れたので、盟約の内容は画一化せず、征服/植民した都市ごとに差をつけました。これで嫉妬などの感情が生まれるので、結束しにくくなるんです。
ヴェイイの場合は、ローマと関係が深いエトルリア人の都市国家なので、同盟市とせず、同じローマ市民としたのでしょうね。
次の時代ですが、BC133年ころの都市の区分と、当初とは変化していますがその頃の都市の内容を書きますね。
⓪都市国家ローマおよび直轄地 ローマ市民権あり、課税あり
①植民市 半島内外に主に退役兵が移住 ローマ市民権あり、課税あり
②自治市 元からある半島内外の都市 上層民はローマ市民権あり 無税
③同盟市 元からある半島内外の都市 ローマ市民権の範囲は都市ごとに差がある 無税 軍役あり
④属州 半島の外の都市国家、領域国家 ローマの直轄地 ローマ市民権なし、課税あり
軍役は義務を意味します。軍役がなくともローマに命令されれば大抵の自治市、植民市も兵を出します。同盟市は同盟国なので、形式上は対等です。だから、当然納税はしません。21世紀のNATOに属するフランスや英国が、米国に税を払わないことを思い出せば当然だと思います。
ローマ市民権があることは、都市国家ローマにおける参政権があることを意味します。ローマで植民市、自治市、同盟市などへの扱いも決まるので、自分たちの意見を反映させるためには必要です。ローマが支配する地域に土地を所有するのも容易になったようです。戦場では危険な中核部隊に配置されます。
ローマとしてはほかの都市が団結すると厄介なので、待遇に差をつけることで嫉妬、蔑視などの意識を作り上げて、団結しないようにしたんですね。こうした統治を分割統治といいます。まとまらないように待遇面で分割したということです。
⑤同盟国 ローマ市民権なし、課税なし

ローマは、北部のロンバルディア地方へ侵攻します。
先住民族のケルト族がそこにはいました。ローマ人は彼らをガリア人と呼びました。21世紀のアイルランド共和国の主要民族がケルト人です。
ローマはガリア人への防波堤となっていたエトルリアがいなくなったので、直接ガリア人と対峙しなければならなくなりました。
BC4世紀初頭、ガリア人(ケルト人)が反抗し、ローマへ侵入します。ローマの城壁まで破壊しました。ローマは復興のための増税などで平民の負担が重くなります。土地を手放す人が増えて、没落していきます。奴隷やホームレスになります。そうした土地を買い集めて大土地所有者、富裕層に成り上がってく人もいます。
BC367年、リキニウス・セクスティウス法‐護民官だったリキニウスさん、セクスティウスさんが、法案を出して、実際に法になりました。護民官は拒否権しかないはずなのに、この時代には法案提出権が実際には認められていたようですね。形式的には認められていないと思いますが。
土地占有の限度を500ユゲラまでと定めました。
125ヘクタールのことだそうで、大仙陵古墳47ヘクタール、京都御苑92ヘクタール、東京オリエンタルランド100ヘクタール、大阪城公園105ヘクタール。ぴったりのがありません。大土地所有を制限して格差の拡大を予防する狙いです。時が経つにつれてうやむやになってしまうんですが、500(ユゲラ)-367(年)=133ですね。BC133年にはこの法律を復活させようとして、グラックスさんが頑張ります。失敗しますが、弟も10年後のBC123年に頑張ります。123という数字を憶えれば、10年前の133、500-133だから367年という年号までつながるので、思い出せます。グラックス兄弟も護民官でしたが、法案提出権がないのに提出したのは違法だとされました。それも理由の一つとして、死に追いやられたんです。
②貧民の負債/借金の利子に関しては、既に払った分を元金から差し引いて、残りは三年間で払えばよいとしました。平民の没落を防ぐ経済政策です。自作農民を減らさないためですね。彼らは税の払い手、兵として必要なんです。没落を免れた人が増えて、富裕層になった人も増えたので、これ以降は(戦費自分持ちの)重装歩兵が確立します。重装備の歩兵のことです。ローマは兵力が増えて、南進できるようになります。
③定員二名のコンスル(執政官)のうち、一名は平民から選出する
実は一時的にコンスルは廃止されていたんですが、復活させます。

②で従来の貴族は権勢の拡大を抑えられて、③で富裕な人が増えていきました。つまり、富裕層が新たに貴族化していきました。従来の貴族(パトリキ)と区別して、新貴族(ノビレス)と呼ばれるようになります。

ローマはBC387年には半島北部を支配します。
軍事的征服だけでなく、同盟市に差をつけて分割統治も行いました。

BC400年頃、ローマの男性はトガ/トーガと言われる市民服を着ていました。肩に集めた布地をブローチで留めていました。その下にトゥニカ(シャツ)を着ていました。

南部の北部にサムニテ人がいます。サビニ人もいます。

イタリア半島南部と、シチリア島は大ギリシア植民地/マグナグラキアと称されるギリシア人のポリスが多くある地域です。
小アジアのイオニア地方にあるポリスのミレトスが哲学の中心で、ミレトス学派が形成されていましたが、BC500年からペルシア戦争が始まります。イオニア地方が戦地になるので、哲学どころではありません。小アジアの人たちは、南イタリア(マグナグラキア)のエレアに移動します。哲学の中心地が移動したんです。エレア学派と言われるようになります。ナポリやポンペイと小さな半島を挟んで南側にあるアマルフィの近くです。今はサレルノ県に属しています。
クセノファネスさんは、エレア学派に含めない学者もいますが、神は一にして全と主張します。ヘラクレイトスさんに近いですね。つまり、当時としては珍しい多神教の否定です。ユダヤ教の影響も受けている可能性があります。神は神自身の似姿として人を作ったという考えも否定します。人と神は姿が似ていないんですね。
パルメニデスさんは、「存在するものだけを人間は考えることができる」、存在しているものの変化を否定して「水は氷にならない。水は水のまま」と主張しました。水と氷は全くの別物と考えたんです。
弟子のゼノンさん(BC5世紀の人)には、有名な言葉があります。パラドックス/矛盾を突いたもので、「飛ぶ矢は静止している。アキレスは亀に追いつけぬ」です。飛んでいる矢は動いていますし、アキレスさんは走れば亀に追いつけるはずです。
「全てのものは運動しているように見えても、限りなくコマ割りすれば止まっているはずだ。止まった点の時間をいくら集めても動き出さない。従って足の速いアキレスも亀には追いつけない。点には面積がないから、点を集めても線にはならないし、面にもならないことと同じだ」。
ゼノンのパラドクスと言われます。映画は静止画を素早く入れ替えることで、動いているように見えるだけで、実際は止まっていますもんね。映画のない時代にこんなことを考えたゼノンさんはすごいと思います。
ゼノンさんは、弁証法の祖と言われます。「~の祖」とは、~を最初に始めた人、作った人を言います。当時は論理的な推論術という意味で弁証法を使っています。21世紀には、弁証法は別の意味となっています。ヘーゲルの唱えた弁証法を意味します。簡単に言うと「矛盾/対立する意見を相互に取入れ、新たな意見が生まれる。このように、どんどん高みへいくプロセス」を弁証法と言います。
このゼノンさんは、BC3世紀に活躍したストア派のゼノンさんとは別人です。受験生は気を付けましょう。

□□黒海北岸

スキタイは匈奴に追われた後、三つに分かれました。留まった人はペルシア人と混じりソグド人になったと言う学者がいます。黒海北岸に移住した人は農業をし、穀物の取れにくいギリシアに食糧を売っていました。更に北部の人は農業と遊牧をし、スラブ人と混ざったと言う学者がいます。アケメネス朝ペルシアはギリシアと戦争をする前に、まずはギリシアへの食糧ルートを断つために、トラキアのスキタイを攻めますが、敗北しています。

□□ギリシア

ペルシア戦争-BC500年-BC449年(教科書)。実質的な戦闘で言うとBC492年-BC479年。ほかにも様々なことを学者は言っています。ギリシアペルシア戦争と言うべきなんですが、記録された歴史書が残りやすいのは勝者の側なので、勝者の表現が歴史用語になりやすいんですね。自分たちが主語なので、省略してもわかります。戦った相手だけを記録すればいいんです。
例えば「今日はクズネツォワと試合だね」と日本人が言えば、テニスで大阪なおみさんの試合だと思います。「今日はブラジル戦があるね」ならサッカーで日本対ブラジルかな。「今日はウェールズ戦があるよ」ならラグビーで日本対ウェールズかな。
もちろん日清戦争のように併記することもありますが、どっちが勝ったかわからなくなった場合には、受験生は戦争に名前が一方だけに出てくるなら、それは負けたほうの名前だと考えれば大体あっていると思います。絶対ではありませんけどね。
契機-アケメネス朝ペルシャのダレイオス一世が小アジアの黒海沿岸であるイオニア地方のギリシア人の作った諸ポリスへ課税をします。
BC500年、ミレトスを中心として納税を拒否します。アリスタゴラスという僭主が煽ったようです。口を蛸のようにしてみんなに呼び掛けたイメージなので、アリス蛸ラスと憶えましょう。
BC499年、イオニア諸都市の叛乱。同じギリシア人のポリスに援軍を要請します。これをアテネなどが受諾したことで、ペルシアがギリシアへの侵攻を決定します。
第一次遠征。BC492年、暴風雨で撤退。アトス岬で船の大半を失って、陸軍は別の民族(ブリュゴイ族)に阻まれ進軍できませんでした。受験生は、これを第0回と考えて、マラトンが第一回の遠征と考えても構いません。
第二次遠征(入試では第一回遠征)-ミルティアデスの率いるアテネが参戦し490(よく走るね)年、マラトンの戦で勝利します。「勝ったぞー」と知らせるために、マラトンからアテネまで走った伝令が、伝えてすぐに疲労からか亡くなったと言われています。これがマラトン\マラソンの由来と言われています。直線距離ではなく、走ったコースはだいたい40kmあったと言われています。1896年にアテネで第1回近代オリンピックがあって、アテネとマラトンの間のだいたい40kmを走りました。1908年の第四回ロンドン大会で、開催地のある英国のアレクサンドラ王妃が、宮殿の庭からスタートして、競技場のボックス席の前をゴールにするように言ったそうです。自分のいるところからよく見えますからね。それが42.195kmでした。
ここまではダレイオス一世が対手。相手のことです。対手ってなんだか好きな表現です。
第三次遠征(入試では第二回遠征)-以降はクセルクセス一世が対手。以降スパルタが参戦し、BC480年(ようやく参戦したのに、地峡のテルモピュライ/テルモピュレーの戦で一人を残し全滅しました。映画「300」で描かれています。本当に300人しかいなかったのかな。ポリスの王はそれほど権限が強くないので拒否することもできたんでしょうね。
BC480年は「ようやく参戦」でも、「よーやるわ」でも語呂で憶えやすいと思います。
BC480年アテネはテミストクレスが率いてサラミスの海戦で勝利します。アテネの沖合にあるサラミス島近海での戦。敢えて後退して敵を誘い込んで、狭く入り組んで暗礁の多い海域で、気象変化の激しい中で戦ったそうです。参政権から除外されている無産市民も参戦します。民会には参加できたけれど、400人会や500人会には参加できずにいた無産市民です。重装歩兵ではなく、三段櫂船で海兵として戦いました。三段ベッドのような狭いところで、一段目、二段目、三段目で各々オールを漕ぎます。ちなみに海戦を指揮したテミストクレスは、戦後に無産市民への参政権付与を強く主張しました。その後、テミストクレスは陶片追放され、ペルシアに行き、クセルクセス一世(アルタクセルクセス一世という学者もいます)に仕えました。
BC480年、勝利の前にアテネのパルテノン神殿はペルシア軍によって破壊されています。アクロポリスまで占領されてからの逆転勝利だったんです。
第四次遠征(入試では第三回遠征)-479年スパルタはプラタイアイ/プラテーエの戦で勝利。アテネは小アジアまで攻めていって、ミカエレの海戦で勝利。ミカエレの海戦は、サモス島に向かい突き出す小アジアのミュカレ半島の沖合で戦われました。これでイオニアは解放されます。つまりアケメネス朝ペルシアの支配から独立します。

大規模戦闘はこれで終了。実質的終了なので、この年を終戦とする学者もいます。以降、ペルシャは衰退します。
けれど、ギリシアではまだ攻めてくると思っています。
BC478年、対アケメネス朝ペルシアで団結して、アテネ中心にデロス同盟を結成。デロス島に本部を置きました。
ちなみにスパルタとアテネのある地方は地峡でつながっています。スパルタのあるペロポネソス/ペロポンネス半島のポリスは、スパルタを盟主としてペロポネソス同盟をBC550年に作っていました。BC6C末(BC500年ころ?)と言う学者もいます。
BC449年、カリアスの和-デロス同盟と、アルタクセルクセス一世の時代のアケメネス朝ペルシアが講和します。形式的にもペルシア戦争が終了します。
本当にあった講和条約なのかは学者が疑っています。けれど、入試では出題されています。
アテネではパルテノン神殿を再建します。意識としては戦争と戦争の間なので殺伐としているのかもしれません。そういう雰囲気なので、質実剛健なドーリア式/ドーリス式の柱を用います。イクティノス、カリクラテスが設計して、フィディアス/フェイディアスが彫刻を担当しました。彼の代表作はアテネ女神像です。21世紀には真っ白なパルテノン神殿ですが、当時、壁などはカラフルだったようです。
ギリシアの柱には三種類あって、古い順に質実剛健のイメージがある簡素なドーリア式。装飾は目立ちません。軽快で優美なイメージがあるイオニア式は、柱の上のほうにある渦巻きが有名です。繊細華麗なコリント式は柱の上のほうにアカンサスという植物が彫刻されます。こうしたギリシア人の作り出したスタイルは、ギリシアを支配することになるローマにも継承されていきます。

ペロポネソス戦争-BC431年-BC403/404年(BC403年は、中国での戦国時代の開始と同年です)、アテネが管理しているデロス同盟の基金流用に対して、スパルタが盟主のペロポネソス同盟がおかしいと声を上げて対決します。スパルタ側が勝利します。この時、スパルタは亜硫酸ガス/毒ガスを使用したようです。もうそういうものがあったんですね。なんとアケメネス朝ペルシアはスパルタ側に付いて、資金援助や海軍整備の支援をしています。ギリシアの勢力を仲たがいさせれば、利益がありますからね。このときダレイオス二世はイオニアを一時的に占領しています。この戦争の様子を書いたのが、トゥキディデスの「歴史」です。ヘロドトスの「歴史」と区別するために、学者は「戦史」「ペロポネソス戦争史」などと呼んでいます。当時としてきちんと史料批判をしました。教訓的な本だとも言われています。
史料批判は、集めた史料をうのみにしないで、ほかの史料と矛盾することはないか、事実と違うのではないかと分析することです。

コリント戦争-BC395年、スパルタ対アテネ。スパルタがギリシアに統一政権を作ると、アケメネス朝ペルシアの脅威になると感じたので、アルタクセルクセス二世の時代のアケメネス朝ペルシアは対スパルタのポリス(アテネなど)を支援しています。講和条約がアンタルギスの和(大王の和)と言われています。アケメネス朝ペルシャの王であるアルタクセルクセス二世が仲介の労を取ったから特殊で大事なんです。スパルタはイオニア地方を見捨てる条件でペルシアに仲介を依頼したようです。これ以降、イオニアは再びペルシア領になります。アレクサンドロスが東方遠征で解放するまで続きます。

入試では地方を特定してその歴史を書きなさいという論述問題があったり、大問が作られます。
イオニア諸都市の歴史~アケメネス朝ペルシア-独立-アケメネス朝ペルシア-アレクサンドロスのマケドニア-アンティゴノス朝-リュシマコス朝トラキア・リディア王国-セレウコス朝シリア-ローマ-東ローマ/ビザンツ帝国-セルジューク朝-東ローマ/ビザンツ帝国-ニケーア帝国-東ローマ/ビザンツ帝国-オスマン帝国-ギリシア-オスマン帝国-トルコ共和国

BC371年、レオクトラ/レウクトラの戦-斜型密集隊形(クルッセファランクス)を発明した将軍エパミノンダスの率いるテーベがギリシア世界を制覇します。テーベは、アイオリス人のポリスです。(エジプトのテーベとは異なります)
テーベの神聖隊はゲイの人だけで構成されていて、結束が強かったと言われています。日本の戦国時代でも、家臣たちと関係を持っていたことで、信頼できる、結束が強くなったと言われることがありますね。

この時代、スパルタは衰退しています。プラタイアの戦では自由民であるスパルティアタイの男子は1万人の重装歩兵を構成できました。戦争で男性が減ったり、アテネのペリクレスを襲った疫病かもしれませんが、人口が減っていきます。また、ペロポネソス同盟の盟主として他国と交流が増えたり、海軍を整備したことで海上交易が増えました。そうすると鎖国体制は崩れます。貨幣経済が進展して、貧富の差が生まれます。重装歩兵になる自由民スパルティアタイは700人に減ったようです。没落して、装備を自弁できない人が増えたんですね。奴隷兵を使うようになると、奴隷の方が1000人以上で勢力が大きい。つまり、軍国主義が衰退したんです。

BC367年、マンテーネ/マッチネーの戦-アテネの制覇、エパミノンダスの死。
BC357年~BC355年、同盟市戦争-アテネの覇権に対し、アテネの同盟市(デロス同盟)が抵抗戦争をします。後は覇者なしの時代になります。
(BC91年‐BC88年の共和制ローマの同盟市戦争とは別です)
BC356/355年、神聖戦争-ドーリア人の国であるマケドニア王国がギリシア北部の輸入路に侵入。食糧輸入路は命をつなぐ神聖なものだから神聖戦争と言うと主張する学者もいますが、主にデルフォイなどの隣保同盟が聖域と寄進財を守るために戦うものを神聖戦争と呼びます、つまり聖戦です。こちらが有力な主張です。大規模なものではギリシアのポリス同士ですでに過去に二回あり、今回は三回目。BC346年、フィロクラテスの和で講和します。フィロクラテスは講和を主張したアテネ人です。
以降、アテネのデモステネスは主戦論イソクラテスはアケメネス朝ペルシアと戦うためにマケドニアとの同盟を主張します
BC338年カイロネイアの戦/ケーロニア戦争-マケドニアに対してアテネとテーベが戦います。マケドニア王フィリッポス二世と子供のフィリッポス三世(庶子、つまり母が本妻ではありません)が主催して、ギリシアンポリスが集まったコリント会議。マケドニアがギリシアの覇権を握ることで安定を図ります。ポリス同士の争いを抑えることにします。
コリント同盟/ヘラス同盟の形成-没落したスパルタを除く全ポリスが参加しました。デロス同盟の+ペロポネソス同盟になって、盟主がマケドニアになったと考えればいいと思います。ポリス間の相互不可侵などを決定しました。
これ以降、ギリシア的特質は消えます=ギリシア文明の終焉です。
つまり、ポリスの特徴だった市民皆兵はなくなって、募兵制になります。徴兵制と違い強制ではありません。募集と応募の関係です。同じグループの人を雇うので傭兵とは言いません。
こうなると、戦争もないし、衰退して食べてもいけないのに政治に口を出す余裕もなくなります。全市民参加の直接民主制はなくなって、大土地所有者だけの参政権になっていったようです。
食べるために、兵に応募する人もいます。故郷を守る戦ではないので、遠い戦地にも行けるようになります。だから、BC336年にマケドニア王になったアレクサンドロス三世(アレクサンドロス大王)の東方遠征(BC334年)についていくことが可能になったんです。

□□アテネ
ペリクレス(前495頃~前429年)による民主制の完成
BC444年-BC430年に、ペリクレスは将軍職に選ばれて活躍しました。オストラキスモスで政敵を追放した後、将軍職を除くすべての役人(アルコンも含む)を希望者のくじ引きで選挙することにしました。また、アルコン(執政官)などの役職を給与制にしたので、無産市民もとうとう官職につくことができるようになりました。直接民主制を完成したと言われる所以です。
とは言っても、女性、外国人、奴隷には参政権はないというのは21世紀との違いですね。市議会選挙などの途方選挙では外国人に参政権を認める国もあります。
市民権をアテナイ人の両親を持つ者に限って付与したことも大事です。自分は将軍職を15回歴任したんですけどね。市民が「名前は民主政治だけど実は一人の支配だ」と陰口を叩くくらいの権勢を誇ったそうです。
BC431年にペロポンネソス戦争がはじまります。BC430年のペリクレスの戦没者の葬送をする演説が記録されています。史料問題として出題されたことがあります。
「我々の政体はほかの政治機構と対立しない。我々の政府は隣人の真似ではなく、彼らにとっての模範である。(王政や貴族政のような)少数者でなく、多数者の手に委ねられているこの政体が民主主義と言われることは真実だ。」と言っています。 私が日本語に訳したので、史料集とは日本語訳が違うと思います。 スパルタなどと戦するときに、アテネのほうが優れていると言いたいんです。そのアテネのために命を懸けて戦ってほしいし、それで亡くなった人に対しては名誉の死だと言いたいんだと思います。21世紀の感覚とは違いますけれどね。

ペリクレスはアテネの人口の三分の一が死んだと言われる感染症でBC402年に死去。ペストだという主張が否定されつつあって、天然痘が有力になっています。
以降、アテネは衆愚政治化。これをデマゴーグと言います。デマは詭弁のことです。常識ではおかしくって、突拍子もないんだけれど、論理的には通じている意見のことです。英語ではポピュリズムと言っていいでしょう。
いづれにしても深く考えずに感情で動く大衆に迎合することで、人気のある政策を取り続けて地位を維持したり、権力を握る政治家が支配する様を言います。この点、21世紀も変わりませんね。こうした民衆をあおる行為をデマゴギーと言います。
ちなみに、政治/politicsはポリスが語源です。
デマゴーグの時代としては、ペリクレスの甥のアルキビアデスが有名で、人気取りのための政治をします。決してポリス全体の利益など考えないんですね。
現代で例えれば減税、公共事業、様々な行政サーヴィスの無料化、立派な競技場や体育館を作る、道路を作る、高速鉄道を開通させる、駅を作る。結局、使う人が少ないし、維持費がかかって借金が残りやすいんです。こういう民「衆」の「愚」かな その場限りの感情に応える政治家と、そういう人を選ぶ有権者がデマゴーグを生むんです。後から「騙された」「あの政治家が悪い」なんて言うから衆愚と言われてしまうんです。

はじめは大富豪だから参戦できる貴族が政治をする貴族政、それから富豪だから参戦できる人が政治をする財産政治、最後に参戦できる人/成人男性が政治をする男性だけの民主政です。アリストテレスが「政治学」で言っているように、(金持ち=)武力/暴力=主権者なんです。だから、参戦しない女性は排除されています。近代になっても、男性だけの普通選挙と徴兵制というのは、だいたいセットになっていますよね。
これは本当に民主政と言えるんですかね。
多数派の意見に合意しない人にも、暴力でそのルール/法が強要されます。デヴィッド・グラベールは「アナーキスト 人類学の断章」という本で、合意よりも多数決を優先することは、分断、内部対立を生むことになると言っています。
西欧的な民主主義と言われる多数決主義が、西欧化、西欧的近代化の一要素として世界中に拡散されるまでは、多くの地域で合意形成を重視した本当に平等で公平な民主主義による社会が形成されていたようです。
暴力を独占した国家という装置がない社会では、何事も強要されないとグラベールは主張しています。20世紀のアナーキスト=無政府主義という理解と違って、21世紀初頭のアナーキストは、全ての権力、意思の強要を拒否する生き方と定義されています。


ペルシア戦争をしていますが、当初は遠くでしています。戦時意識がないんですね。
恋愛をうたった叙情詩を残した女性のサッフォーが有名です。アナクレオンは酒と恋と青春を詠った叙情詩人です。
叙事詩と叙情詩の違い
叙事詩 物事を詠う ポリスがね ペルシアを相手に 勝ったのさ
叙情詩 感情を詠う アテネがね 勝利したのさ 嬉しいな
BC518-BC438年に叙情詩人として有名なピンダロスがいます。テーベ生まれでアテネで学んだそうです。オリンピア祭典の勝利者を称えた『オリンピア賛歌』があります。
ペルシアとの戦争がアテネにも近づいてくると戦時意識が出て来ます。舞台での芝居も、人間って哀しいよね、と思うから悲劇が増えるんです。
三大悲劇詩人
アイスキュロス
アガメムノン」はトロイ戦争の頃のミケーネ王の伝説を元にしています「縛られたプロメテウス」は、天界から盗んだ火を人間に付与したプロメテウスの芝居。
ソフォクレス
オイディプス」はエディプスコンプレックス(母を独り占めしたいマザーコンプレックス)の由来で、父を殺し母の夫になった男の話です。妹はテーベの王妃アンチゴネーです。「アンチゴネー」という舞台になっています。
エウリピデス
アンドロマケ」は、トロイ戦争で活躍したヘクトールの妻の芝居。
「メディア/王女メディア」「ピッポリュトス」などもありました。
芝居はお祭りのときに演じられます。元は神々へ捧げるものでした。だから、出演者は舞台の奥側を向いていたんです。それがだんだん娯楽化したからいだと思うんですが、出演者は観客のほうを向くようになりました。三大悲劇詩人の時代には、コロス(コーラスの語源。合唱隊)から分かれてセリフだけを言う役者が登場します。劇作家である詩人が戯曲を書くから登場するんですけどね。戯というのは音楽、合唱から始まったのでこう言うようです。実験としてセリフを言う役者が一人登場する時代から、複数が登場して会話劇という段階に達すると、大きな変化があったでしょうね。
コロスは相変わらずいました。能の地謡がコロスに相当するのかな。
脚本家が書いた原案が脚本で、俳優に渡されるのが台本で、本として読むだけで楽しめる作品になっているのが戯曲です。

戦争が長引くと厭戦気分が出て来ます。そして戦争が終わっても、どうせ人は死ぬんだから、生きている間は楽しもうという気分になりますよね。
だから、こういう時代は喜劇が盛んになります。
アリストファネス
「女の議会」は、ペロポネソス戦争のさなかに戦争の批判ですね。
「女の平和」は、女性の立場から平和を願う空想劇です。
男性は大っぴらに反戦を言えないんです。戦は仕事で、名誉につながります。だから、劇作家は女性に言わせるんです。
さらに「蜂」「雲」なども書きました。

思想としては、
小アジアのイオニア地方にあるポリスのミレトスが哲学の中心でミレトス学派が形成されていましたが、イオニア地方が戦地になるから哲学どころではありません。それで、南イタリアのエレアに中心地が移動して、エレア学派を形成したことは書きました。
ギリシア本土、主にアテネでも哲学は盛んです。
この時代にも、世界の根源/元素/アルケーとは何ぞや?と考える原子論者もいます。
エンペドクレス(シチリアかキュレネの生まれ)は、これまでの「アルケー/根源は、なにか一つの物」という考えを発展させて、多元論を主張します。アルケーは火(ヘラクレイトスの説)・空気(アナクシメネスの説)・水(ターレスの説)・土の四大元素からなる。この四大元素に、愛が生成/接着を、憎しみが消滅/分離という変化を与える力として作用すると考えました。
アナクサゴラスは、「太陽は燃える石だ」と言いました。当時としては鋭いですね。「万物は、無限に小さく分解できる無数の種子(スペルマータ)の集まりだ」と言っています。象を構成しているのは、象のスペルマータ。人を構成しているのは人のスペルマータ。特定のスペルマータが定まっていて、別の物にはなれないと考えています。万物の万能の構成要素である素粒子とは違う考えです。「万物は理解だ」とも言っています。
ルキッポス/レウキッポスは、デモクリトスの師匠。世界は空(くう)とアトムから成り、アトムが渦を作り、似たアトムとくっつき物質化すると考えました。原子論を立ち上げたと言えます。
星間ガスが渦を作り、星になるのと似ています。「古事記」の大八島を作った時、いざなぎが どろどろをかき混ぜる行為も似ています。
デモクリトスは、世界の最小単位はこれ以上細かくできない原子/アトムだと言いました。原子は空間を動いて、くっついたり離れたりすると考えました。人間が感知できないものは存在しない=なにもない=空間もない、という発想から飛躍したんです。人間も原子から成るので、死んだら分解されるだけで、冥界に行くわけでも何でもないとも解釈できます。唯物論とも言えます。神々に関してどう考えていたんでしょうね。

ソフィストは、哲学者と訳されますが、21世紀の哲学者とは違います。懐疑主義に拠って立つ。なんでも疑ってみようという人たちです。また、アテネは民主化が進んで、金持ちではなく、民会での弁が立つ人の意見が通るようになっていきます。そうすると弁論で政治を行う為に、論理的で修辞的な弁を学ぶためにソフィストに教えを乞うんです。修辞は飾り立てることです。
例えば、
「あのヘラクレスの血を引いているという力強き若者を見よ。彼こそがあのにっくき専制政治を行うペルシアに対する激しい戦であまたの敵を打ち破る将軍にふさわしい。」
簡素に言うと
「あの若者がペルシア戦争の将軍にふさわしい」
これでは説得力がないので、美辞麗句で飾り立てるんです。
プロタゴラス。有名な言葉に「人間は万物の尺度」があります。絶対的な基準というものはなく、人が見て美醜を、触って快・不快を、舐めて美味を決める。人間各自が尺度だと言っているんです。「相対主義」とも言えます。プラトンさんが「プロタゴラス」という本を書いています。
ゴルギアス。プラトンさんが「ゴルギアス」という本を書いています。不可知主義を主張しています。人はすべてを知ることはできないし、知っていることを完全に伝えることもできないと言うことです。

ソクラテス。ソクラテスの信奉者がデルフォイの神殿に赴いて、「ソクラテスよりも賢い人はいるか」と問いました。巫女は「いない」と神の言葉を告げました。アテネの賢人の中で無知を自覚しているのは彼だけでした。他の賢人は自分は何でも知っているという態度をとっているのに、ソクラテスが話してみるとそうでもない。そこでソクラテスは自分が知らないことをきちんと自覚している点で、他の賢人より賢いと神は考えたと納得したようです。「無知の知」として知られています。また、そういう意味で「汝自身を知れ」と言う言葉を残していますね。「無知の知」の反対語が「倨傲(きょごう)」、知っていると思い込むことです。
産婆術。ソクラテスの母親は産婆だったとも言われるので、そこに由来したネーミングかもしれません。ソクラテスはポリス中の賢人、物知りという人たちと議論をして、彼らでさえほとんど物事を知らないと気づいたんですね。例えばソクラテスが「善とは何か?」と問うと、賢人は「神が善いとされる基準だ」と答えます。そうするとソクラテスは「それでは神とは何か?」と問います。「神は善いものだ」と答えます。自分は知っていると言う倨傲の人はそこで成長が止まるんです。ソクラテスは何も知らないと知っているので、そうして質問を重ねることで、相手と自分の考えがさらに磨かれると考えました。こうした新たな考えを産み出す産婆役になるので、ソクラテスの対話の方法は産婆術と呼ばれました。一人で考えるよりも、対話をすることで新たな発見や、新しいアイディアが浮かぶことってあります。三人寄れば文殊の知恵とも言いますもんね。
けれど、こうしたソクラテスの活動は、若いものを惑わして秩序を乱す恐れがあると考えられて逮捕されてしまいました。
牢屋から逃げるよう手引きしたり説得する人がいたんですが、
「悪いとされる法を守らない人間がいたら、誰もが自分で"この法は良いか悪いか"と考えるようになり、結局は良い法さえ守られないようになる」。「悪法も法」だから守るべきだとして、牢獄から逃げるチャンスはあったのに逃げませんでした。そして毒杯を仰いで自死しました。BC399年のことです。弟子のプラトンさんが書いた「ソクラテスの弁明」「クリトン」(ソクラテスの親友クリトンが出獄を説得するけれど、拒否)「パイドン」(毒杯を仰いで死にます)に詳しく書いてあります。ソクラテスは自分では本を書いていないので、弟子が記録を残したんです。ナザレのイエスのようですね。

プラトンさんは、20歳の時に、43歳上のソクラテスに出会って弟子になりました。師の言葉を後世に伝えた点が高く評価されています。本を読んでも、ソクラテスの思想なのか、プラトンさんがそれを発展させた思想なのかがよくわからないんですけどね。
この時代の哲学書のほとんどは対話形式で、対話篇と言われます。産婆術のように、そのほうが真実に近づけると考えたのか、説明しやすいと考えたのか、どちらなんでしょう。
先生によると
「ヨーロッパの教育は対話形式の古典を読む伝統がある。大学生の必読書リストには今でもプラトンやアリストテレスの著作が挙げられる。またコミュニケーションとして対話を重視する。その始まりはこのアテネにあると言う人もいる。米国はディベート、スピーチを重視する。日本は対立を表沙汰にせず、事前に根回しして会議では承認するだけ。議論の文化が浅いので、声の大きな人、意見をごり押しする人の意見が通りやすい。一方で面従腹背があるから、通った意見は骨抜きにする。どっちがいいんだろうね」
と言っています。
先生は外国の大学に行っていたのかな、と少し思いました。
プラトンは私学のアカデミアを作りました。プラトン学院とも言います。
アカデミアは、アカデミーの語源です。図書館と博物館と体育館と講堂があります。AD6世紀に東ローマ帝国/ビザンツ帝国の皇帝ユスティニアヌス一世が閉鎖するまで続きました。15世紀にフィレンツェのメディチ家の保護下でプラトンアカデミーとして復活します。
アテネには、ギュムナシオンがあります。男子の公立学校のことで、体育を主にするんですが、入浴や哲学論議もします。ドイツのギムナジウムの由来です。ヒムナシア、ジム(体育館)なども同根です。
因みに、プラトニックラヴ(精神的な愛)もプラトンに由来しています。プラトニックラヴ は、プシュケー(魂や精神)の愛を意味します。
プラトンには「法律(ノモイ)」という著作があります。
「メノン」では、学習とは魂が既に知っていることを思い出すことだと書いています。すごい発想ですね。輪廻の前世を思い出しました。
イデア論」は、二項対立の世界を書いています。変化する現世と、絶対価値基準/そのもの/源/元/イデアの世界のことです。
イデアの世界は「理想の器.理想の馬.理想の愛.理想の家」や、美そのもの、大そのもの、人そのものがあると考えます。現世、現実の世界には個別の物、具体的な物、特殊な物はありますが、普遍的、抽象的、一般的な物はありません。湖と言っても、琵琶湖、猪苗代湖、諏訪湖では、深さも景色も色も違います。個別的な物のアルケーを考えたとき、イデア(IDEAアイディアです。)の世界を思いついたのかもしれません。
国家/国家論」では、幻の文明アトランティスを例に出して、少数の哲学者が統治するのがポリスの理想政体だと主張しています。AD2世紀末のローマ皇帝マルクス アウレリウス アントニヌス帝は哲人皇帝と言われますね。儒教国家の理想も武人ではなく、徳治、つまり哲学者の統治とも言えます。後に、ドイツの哲学者ニーチェも自分の意見を古代のゾロアスターに仮託して語らせていますが、同時代性がないことで現代社会からの反感がなくなるし、対話なら読者にもわかりやすいということなんでしょう。

アリストテレスさんは、アレクサンドロス三世の教師として知られています。三段論法を発明したとも言われます。三段論法はシルロキスモスと言います。集住/シノイキスモスと間違えやすいので気を付けましょう。
三段論法は、
一段目 直立二足歩行する動物は人である
二段目 村岡さんは直立二足歩行をしている
三段目 だから、村岡さんは人である
こうして真実に近づこうとする論法のことです。
気を付けないとおかしなことになるんですけどね。
例えば、
花譜さんは歌を好きだ
本郷りんは歌を好きだ
だから、本郷りんは花譜さんだ
違いますね

アテネの国制」はポリスの制度に関するものです。
「政治学」はアレクサンドロス三世が使ったテキストのようです。人は(生まれつき)ポリス的動物だと書いているようです。どういうことなんでしょう。読んでいないので知りません。大学生になったら読もうかな。
「形而上学/メタフィジカ」は、実体や原因の思索。アリストテレスさんの全集で、フィジカ/自然学の後/メタに置いたからメタフィジカと言われるそうです。日本語は、形あるものを越えた上位の原理の学の意味です。
「オルガノン」「詩論」なども書いています。
アリストテレスさんは具体的な存在者・個物・個体について、それは何かと問います。例えば、飛行機とは揚力(作用因)・飛ぶ(目的因)・鉄と紙(質料因)・羽を持つ(形相因)、この組み合わせからなるもので、四原因説と言います。
また、リュケイオンという学園を設立しました。リュケイオン神殿の近くにアテネの男子公立学校があり、名をリュケイオンと言います。アリストテレスの作った私学校もリュケイオンと呼ばれたんです。

キュニコス派のディオゲネスさんは、小アジア北部のシノペ(黒海沿岸で、のちのポントス王国の都)にいます。欲から解放されるために、大きな樽の中に暮らす苦行をしていました。ある時、日向ぼっこをしていると、名高いディオゲネスさんにわざわざ会いに来たアレクサンドロス三世が近くに立って「望みを聞かせてくれ」と言ったそうです。ディオゲネスさんは「そこをどいてくれ。日陰になるから」と言ったそうです。欲から解放されたいのに金銀や地位を望むわけにはいきませんしね。
「唯一正しい政府は世界政府だ。私は世界市民/コスモポリタンだ」と初めて言った人だそうです。
現世に対して冷めた皮肉な態度を取るシニカルの由来となったキュニコス派は、家もないし身なりにもかまわなかったので、犬のような乞食生活とさげすまれ犬儒学派とも言われます。のちのストア派のように禁欲ですが、実践を伴う点が異なると言われています。ソクラテスの弟子のアンティステネスがその派の祖です。

アレクサンドロス三世の作りだしたヘレニズム世界以降、哲学は倫理を考える時代になります。中世に入って、哲学は宗教を考える手段になります。これはルネサンス/キリスト教以前の古代を復古する時代、まで続きます。

古代の哲学をまとめてみましょう。
古代ギリシアにおいて、 「それは何か/WHAT?」という問から始まる。
例えば「万物とは何か?」「根源/大本/アルケーは何か?」
タレスは、万物は水、原料の物質/OF WHATを考えました。 
デモクリトスは「アトム/原子から成り立っている」。原子の性質はニュートラルと考えました。
ヘラクレイトスは「流転」、万物のメカニズム/HOWを考えました。
パルメニデスは「無変化で無運動の"存在"」、HOW/あり方を考えた。
古代のギリシア世界では、奴隷が仕事をするので、市民は暇なのです。
特に貴族制では、思索をたっぷりします。全体性、宇宙を考えます。これが民主化されていくと、弁論で政治を行う為に、人間に焦点が当たります。ソフィストのプロタゴラスが、人間は万物の尺度とも言っています。
そして、ソクラテス、プラトン、アリストテレスになると再び本質を考えます。

医学の父と言われるヒポクラテス。エーゲ海の(ロードス島に近い)コス島の出身。ヒポクラテスは血液、粘液、胆汁、黒胆汁の四つの液体的要素から人間の体はなっていて、このバランスが大切と言っていた、と書かれています。これが四体液説です。現在でも医学界でヒポクラテスの誓いという言葉があります。ヒポクラテスの誓いとは、医師の倫理、仕事に関して神々に誓ったもので、現代では患者の生命、健康保護、プライバシー保護などに継承されているそうです。
ヒポクラテス以来の医学のもろもろの知識や技術を完成/大成したのはAD2世紀のガレノスと言われています。

この時代、プラクシテレスは、男性美を表したヘルメス像を彫っています。直立不動のエジプトの像と違って、ギリシアの彫刻は自然体で誇張が少ない理想的肉体美とされています。理想なので筋肉の付き方が写実的ではありません。

歴史も記録されています。科学的記述の歴史と言われる一方で、物語風とも言われるヘロドトスの「歴史」。綽名は歴史の父。トルコの南西部ハリカルナッソス(21世紀のボドルム)出身と言われています。なぜ出身地まで書くかと言うと、難関大学の入試でヒントとして出されるからです。代表作が「歴史」。同名の本が多いので後世の人が勝手に、「ペルシャ戦争史」と呼ぶこともあります。「エジプトはナイルの賜物」は、この本の中のセリフです。戦争史以外の民俗も記述しています。
トゥキディデスの「歴史」は、史料批判をして、教訓的と言われます。先ほど書きましたね。同名の本が多いので後世の人が勝手に、「ペロポネソス戦争史」「戦史」と呼びます。
クセノフォンの「アナバシス」は、ペルシア王の兄キュロスが叛乱したときに、キュロス側で参加した傭兵のギリシア人1万人が負けた後に、敵中を突破した6千キロを描きます。半分に減ったそうですが、ギリシア側に帰還しました。「ギリシア史」も書いています。

□□西アジア

アケメネス朝ペルシア。ダレイオス一世がトラキア遠征で、ギリシアの食料源であるスキタイを攻めました。これは失敗。そして小アジアの黒海沿岸であるイオニアの諸都市への課税を命令しますが、BC500年ミレトス(僭主はアリスタゴラス)を中心としてイオニアのギリシア人ポリスは納税を拒否します。BC499年、叛乱を起こします。イオニアのポリスは、ギリシアのポリスに援軍を要請。ペルシア軍がギリシアへ第一次遠征、BC492暴風雨で撤退。アトス岬で船の大半を失い、陸軍は別の民族に阻まれ進軍できませんでした。第二次遠征では、490年、マラトンの戦でアテネに敗北。
BC484年-BC476年にはバビロンが反乱。
第三次遠征では、クセルクセス一世が率いて、BC480年、地峡のテルモピュライ/テルモピュレーの戦で、一人を残しスパルタ軍を全滅させますが、アテネにサラミスの海戦で敗北。第四次遠征では、479年、スパルタにプラタイアイ/プラテーエの戦で敗北。アテネにミカエレの海戦で敗北。これでイオニアが独立します。
大規模戦闘はこれで終了。
武功だけで求心力を保つ烏合の衆の国家なので不安定です。戦争で負けるとこんな政権に仕えていてもいいことないし、そもそも軍事力もないと思われ衰退、瓦解するのが常なんですね。ペルシア戦争後はそうなります。
BC465年、クセルクセス一世(クシャヤールシャン一世)は護衛隊長によるクーデタで殺されます。
アルタクセルクセス一世が王位(BC465-BC424)に就きますが、弟がバクトリア地方で反乱し、エジプトではリビア人が反乱します。
BC449年、カリアスの和-ペリクレス時代のアテネとペルシアが講和し、形式的にもペルシア戦争は終了します。
ダレイオス二世はBC423年-BC404年、イオニアを一次的に占領します。
アルタクセルクセス二世。.BC404年-BC358年?
BC404年からエジプトが反乱し、BC342年まで続きます。弟も反乱。鎮定された弟側についたギリシア傭兵軍の逃避行がクセノフォンの「アナバシス」に書かれます。
スパルタvsアテネのコリント戦争に介入。アンダルギスの和/大王の和。スパルタはイオニア地方を見捨てる条件でペルシアに仲介を依頼したようで、これ以降、イオニアを再びペルシア領とします。
BC342年、アルタクセルクセス三世はエジプトを再征服します。他にも書いていませんが、反乱が各地で起こっています。この王は大臣に毒殺されてしまいます。
BC336年にダレイオス三世が即位しますが、各地の兵力を一致団結させてアレクサンドロスに対抗する力はすでにありません。ダレイオス三世もサトラップの一人でしたが、こうした政争を契機にのし上がった人です。ハカーマニシュ家/アケメネス家の出身ではないと学者は言います。王位に就いた後に系図をいじってダレイオス二世の家系にくっつけたようです。そんなことしても宮中では知られているでしょうしね。求心力はなかったと思います。

□□インド

BC500年頃、製鉄技術が伝わります。
シスナーガ朝マガダ王国が北インド地域を統一します。ガンジス流域ですね。都はパータリプトラ(現在パトナ)。パータリプトラは、漢訳仏典で華氏城 (けしじょう)と書かれます。21世紀の中国語では、ふぁんしーちゃお、のようです。
BC413年にナンダ朝マガダ王国が成立します。南下して半島中部を統一します。
このころ、バラモン教のヴェーダ(賛歌)のウパニシャッドが独立して、ウパニシャッド哲学になります。輪廻を抜け出る解脱の方法を説いています。梵我一如(ぼんがいちにょ)のことです。宇宙の根源である梵/ブラフマンと、私/アートマンは、本質的に同じものだと悟ることで解脱できます。輪廻から離れられます。楽園に行けます。
さあ、これで解脱の方法がわかりました。
そうは言っても、そうはいきませんよね。
宇宙の根源が素粒子だとすると、私も素粒子でできています。だから、本質的に同じものだと知っています。それなのに、   解脱できません。
どういうことなんでしょう。

□□中央アジア

スキタイが北アジアへ勢力を拡大します。
遊牧民は税金もないし、契約もしないし、そういうわけで文字を持たないグループが多いので、記録が少ないんですよね。スキタイに侵攻された農耕民族が記録するんですが、中国と中央アジアと中東とでスキタイに攻められたとしても、彼らが記録した遊牧民が、同じスキタイかどうかもわかりません。中国では、鼻が少し高いと記録しても、中東から見れば鼻が少し低い遊牧民だと記録するし、名前も変わりますしね。トルコがturkや突厥や土耳古になったりするのと同じです。だから、わかっていることがすくないんです。考古学者にお任せします。


□□東南アジア

以前にも書きましたが、BC11世紀からと言う学者もいるし、BC3世紀と言う学者もいますが、BC5世紀、北ヴェトナムの紅河流域です。ハノイ/河内の南部、海南島に挟まれたトンキン湾に注ぐ紅河の流域に、東山文化/ドンソン文化/ドンシャン文化が成立します。青銅器(主に祭器として)と鉄器の併用の文化です。銅鼓が出土しています。銅鼓は中国南部や東南アジアに広く分布しているので、交易の証です。銅鼓の起源は、雲南とも言われます。
ドンソン文化は1920年代後半の発掘と聞けば、フランスが支配していた頃だなと分かるので、発掘者のパジョはフランス人と分かります。
BC5世紀(又はBC3C)、中部ヴェトナムのクァンガイ省にサーフィン/サフィン文化が成立します。ビンチャウ文化などの先サーフィン文化は青銅器を使用していましたが、この段階のサーフィン典型文化では鉄器段階に入っています。クァンガイ省北部のビンチャウ段階から発展して、ベトナム中部、北はトゥアティエン・フエ省から南はビンディン省までの地域に分布した鉄器時代文化です。
農耕・漁労の併存が特徴です。つまり入試でヒントとして出題されます。フィリピンやボルネオ/カリマンタン島にもみられる甕棺墓群が特徴です。たぶん殯(もがり。仮埋め。骨になるまで待ったりします)の後に、再び埋める際に骨を棺に入れたんだと思います。棺は長胴形または卵形の甕棺と帽子形の蓋です。その棺の周囲や蓋の上(棺の中ではなく)からは副葬品として多くのガラス玉が出土しています。 他に副葬品として鉄器、「ランプ形土器」があります。
先サーフィン文化に属するフエを中心としているので、のちのチャンパに継承された文化ではないかと言われています。この文化のまとまりは、AD100年頃に消えてしまいます。

□□中国

歴史の時代区分としては、春秋時代です。
諸子百家が輩出する時代です。BC403年の戦国時代からBC221年の秦の統一までが中心で、BC2世紀中ごろ、前漢の武帝に仕えた董仲舒の献策で儒学を官学化するまで続きます。
々の君(多くの)派()を作って主張し合った時代。誰もが一言持つ、百家争鳴の時代です。
因みに、立派とは「一流派を立てる」こと。一流とは、独自の流派のことですね。
孔子も諸子百家の一人です。時代としては早いんですけれどね。
この時代の百家で有名なのは墨子(BC480/470年-BC390年)です。彼のグループは墨家と言われます。「わたしは天下のことを考えるのであって、一国の興亡など取るに足りぬものだ。主君におもねらないのが忠臣也」と言っています。墨子は人間性を天賦の他利性/利他性にありと考えました。ボランティア精神に近いのかな。自らを愛すように人を愛せという意味で「兼愛/博愛」を主張しました。専守防衛に徹し、不義の王を討つ時と、強国に攻められた弱小国を救う時だけは武力を用いていい「非攻」を主張しました。己の利ではなく義によって考える、国ではなく天下のことを考えるべきだと「交利」を主張しました。天下の人は利害を共にするのでwinwinの関係を主張したんですね。国の枠を超えた世界規模の思想家と言えます。賢人を貴ぶ「尚賢」も主張しました。
入試では、孔子の道徳を家族への範囲にとどまっているから不足だと批判したことがよく出題されます。
「諸子百家」(湯浅邦弘.中公新書.2009年)という本があります。「墨子」という映画もあります。

BC403年になると、晋が分裂して三つの国が作られます。趙、魏、韓です。以降を戦国時代と言います。下剋上の時代です。もう周王朝を立てようなんて気もなくなっていきます。
各国は周王朝から自立して、各々の理想国家を建設するために、国力をつけるために、軍事力を必要としたために、宰相や将軍として百家を迎えました。学が立身出世につながる時代だったんです。
「春秋」の三大注釈書に、「春秋公羊伝」「春秋左氏伝」「春秋穀梁伝」があります。注釈書は解説書、参考書のことです。戦国時代の各国の王は、自分が周王朝に替わって中国の統一王になりたい。「春秋」に、自分にとって都合のいいことが書いてあると主張するために、家臣に書かせたようです。孔子は巫女の血筋を持つから、孔子の書いたことは預言になります。孔子が「どこそこの王が統一王になる」と書けば、実現したときに、「ほらやっぱりね、孔子が書いた通りだ」と受け入れられやすいんです。だから、例えば東のほうに君子が現れて天下を取るなどと書いてあれば、注釈書で、それは斉の国王のことであると書かせたりします。
「春秋公羊学」は、前漢で大いに利用されて、公羊学という学問になります。清の末期にも公羊学は流行しました。

戦国時代BC403年、晋の分裂~BC221年、秦の成立)の由来は各々の戦略を集めた「戦国策」(著者は劉向)です。この本の記述がBC403年-BC221年を扱っているから、この本に由来して戦国時代と言います。春秋時代の尊王攘夷に対して、戦国時代は、各国が王自称し、下剋上の実力社会になります。貴族が大平原を戦車で進み、勝敗を決した春秋時代と違い、戦国期は歩兵が長距離を移動して、数年をかけて争います。勢力や国境争いではなく、国家の存亡がかかっています。戦争が国家の最重要テーマになった時代です。勝手に戦してるなーという時代ではなくなって、農民が為政者の政治に関与される、同化されるんです。
こうした中で、戦国の七雄と言われる強国が登場します。
燕趙斉魏韓晋楚。えん ちょう せい ぎ かん しん そ
北東からジグザグに降りていく順番で憶えましょう。
受験生は「園長正義感心楚」と、一つながりの言葉だと憶えやすいかな。
漢字を憶えやすいものにしてあります。入試では本当の漢字を書いてくださいね。
東方の斉などは西方の秦と対立しました。当時の経済学術の中心地は、山東半島にある斉(せい)の都の臨淄 (りんし)です。斉の宰相として有名な孟嘗君の故事に「鶏鳴狗盗」があります。孟嘗君の手下が鶏の鳴きまねで朝を告げ、関所を開けさせて、命が助かる古事です。
先生は「斉(せい/さい)とかけて、賽(さい)の河原で危うく死ぬところだった。臨淄 (りんし)の国の人だから、臨死(りんし)体験をした。ほら、これで斉の都を憶えたな」
と言っていました。
趙の都は河南省の邯鄲(かんたん)です。
趙の邯鄲なので
先生は「超簡単だろ」と言っていました。

中央の周王朝が縮小して、地方が拡大するので規制が減って、商圏が拡大します。このため遠い距離を運ぶ間に破損して価値がなくなる自然物ではなく、人工的に作った丈夫な貨幣が必要になります。
だから、青銅の鋳造貨幣が誕生するんです。
布銭は農具の形を模倣してあります。農耕地帯の韓.魏.趙で使用されました。
蟻鼻銭(ぎびせん)は貝貨の形を模倣しました。子安貝の採れる楚で使用されました。
円銭。環銭とも言います。四角い孔があいています。で使用されました。刀銭は刀の形で、異民族と境を接して刀が活躍する斉.燕で使用されました。
貨幣が国ごとに異なる点も、 地域文化圏の成立の証です。

春秋時代の中期には宗族が解体されて、個人で生きていく時代になりました。末期には、都市化が進み、領土国家化が進み、人は血縁を越えて人間関係を結び、また共同体の一員にならざるを得なかったんです。その日を生きるという素朴な生活ではなくなり、ここでいかに生きるべきかという問いが出て来るんです。
戦国時代の諸子百家はそうした悩みにも対応する必要があります。
・楊家-楊子。利己主義を主張します。墨子の対極にありますね。
孔子も墨子もそうですが、子は「さん」「先生」の意味です。名前ではありません。敬称ですね。日本にも伝わって、名前になっていきます。小野妹子もそうかもしれません。貴族は子を名前に付けたりしました。明治になって、庶民がまねをしたので、昭和までは○子さんが多かったそうです。
道家-老子(ラオツー)。「頑張って物・金・地位を手に入れてもさあ、それを守るためにまた頑張らなくちゃいけないから、心が休まる暇がないよね。自然体で行こうよ。」を表したのが「無為自然」という言葉です。宇宙の根源は「道(タオ)」=カオスであり無なので、ただ受け入れればいいと言っています。たしかに、放り出された嵐の海で方角もわからないのに泳いでも苦しいばかりで、無駄かもしれません。人間が泳ぐなんて大洋においてはけしつぶのようなものです。それならば海流に乗っていればいい。そうしたらどこかにつくかもしれません。
荘子(そうじ。本名は荘周)は孟子の同時代人で、「これがおいしい。これが美しい。これが素晴らしいと、人は勝手に好みで評価をするから争うのだ。表面的なものでなく本質を見よ。」と言っています。
「人によって価値観なんて違うし、真実なんて分かりっこないんだから、あるがまま、そうだね、その通りだねと言って受け入れようよ」ということかな。この境地にはなかなかいけません。
世俗や五感を経由した認識は駄目で、真実の心と自分の心が直接向かい合う方法を取りなさいとも言っています。著作としてまとめられた「荘子」の中の「斉物論」(せいぶつろん)という部分において、人の認識などあてにならないから、そんなものは否定して、無の境地に達して、道と一体化せよ言ってます。
道家と違うのが道教です。老荘思想(老子、荘子の思想)や神仙思想(神や仙人、不老不死)、讖緯説(しんいせつ。予言)などを取り込んで、後漢末に始まります。五斗米道という教団がはじめました。根底は「すべては混沌だ。一切は変化し続けるんだ。一切は夢だ。万物の本体は永遠に運動する混沌だ。タオ(道)は無名で、天地万物はそこから生まれ有名、つまり名を持つが、無為自然、つまり自己に固執するな」と言っています。道教では、老子は神とされています。太上老君と呼ばれます。「荘子」は経典と考えられました。
・名家-恵施(けいし)、公孫竜。論理研究から開始したんですが、のちに詭弁論(きべんろん)に到ったと言われています。
「白馬非馬論」では、「白馬は色彩では白、形態では馬、このような概念の合成である。また、目の前にいる白馬は具体的で個別であり、馬は抽象概念である。この二つは異なる。従って白馬は馬ではない。」
このように概念と 外観と本体とを混同してはならないと言いました。
「堅白同異論」では、堅くて白い石には、「堅さ」と「白さ」の別個の認識があるけれど、存在としては一つのものだと言っています。
陰陽家-鄒衍(すうえん)。自然を追求した学派です。陰陽五行説が有名ですね。木火土金水が世界の要素で、禹が五行説と名付けたと言われるんですが、鄒衍は、この五要素が循環して変化すると考えたんですね。これを利用した曜日(木曜日、金曜日、土曜日~水曜日)も循環しています。木火土金水の各々が色と対応しています。
木=青(木々の緑。信号の緑を日本人が青信号と呼ぶことを想起させます)、火=赤、土=黄(黄土だから?)、 金=白(太陽は赤にも黄色にも黄金色にも白にも見えますからね)、水=黒(珊瑚礁があれば青いけれど、内陸の大河の水は黒色に見えるのかもしれません。)
鄒衍は五行説によって帝王の徳を分別しました。そして、王朝交代の理論を説いたんです。
例えば周王家は火の徳を持っています。火徳と言います。火の周に勝って滅ぼした秦王家は水徳。水は火に勝てるからでしょうか?
漢は再びで赤がシンボルカラーなので、クーデタで起こった新の末期に赤=漢が復活してほしいという願いから 眉の乱が起こりました。後漢の末期には、赤(後漢)は早く終わって次の色(黄色)に行ってほしいという思いがあるので、巾の乱が起こります。
五行説には二種類の順序があって、相生説では木は火を生み、火は土を生むように、木火土金水(もっかどごんすい)の順序で生成変化します。相勝説では水は火に勝ち、火は金に勝つとように、土木金火水の順序。新しい王朝が成立する度に五徳の一つを採用して、宣言するそうです。
儒家-孟子性善説が有名です。人間は九品に分けられると中国では古くから考えられていました。一品、二品、三品は上品と言います。人を見下げて言う「三一(さんぴん)」とは関係ありません。中品があって、七品、八品、九品にランク分けされる人が下品と言われます。仏教の九品仏はこれと融合した考えかもしれません。
孟子は上位三品の人の性質は本来的に善だという「性善説」を主張します。また、覇道政治を否定して徳で導く王道政治を主張します。徳があれば、徳を慕って多くの人が来るので国が栄える、暮らす人は徳のある治世を見て自分も徳のある行動をすると言います。今の環境にいる生徒、選手、社員はだめだ、優秀な生徒、選手、社員のいるところに行きたい、そうすれば力を発揮できるのになあと言っている人は、周囲にも悪影響を及ぼしています。そんな人のところにいたくありませんからね。孟子なら、態度を改めて、そこで力を発揮しなさいと言うかな。
孟子は、易姓革命を唱えました。易姓はレ点をつけて読むと、王家のえる(かえる)となります。王朝の交代のことですね。革命には二種類があって、武力の放伐(ほうばつ)、有徳の士を見つけたら、進んで国を任せる禅譲(ぜんじょう)です
荀子(じゅんし)は、九品のうち下位三品に対する性悪説を主張しています。たいていの人、庶民を性悪と考えていたんでしょうか?覇道政治=徳ではなく、武力によって民衆を治める政治を説いています。
兵家-孫子(本名は孫武)。「戦争は国家の一大事であるからして、勝利至上であるべし。だまし討ちこそ最良で、やる前に互いの力量を測れば結果もそれと知れよう」と言っています。他に呉子がいて、戦略などの研究をしています。文庫で「孫子」「呉子」が出ています。
・戦国時代の後期には縦横家(じゅうおうか/しょうこうか)の蘇秦、張儀がいます。法家も後期に活躍します。商鞅、韓非子/韓非(儒家の荀子の弟子。法家思想を大成)、李斯(秦の始皇帝に仕え、宰相になります。荀子の弟子)、管仲がいます。次の時代に書きますね。

□□日本列島

弥生時代
学者によっては、水田の稲作農耕技術の伝播が、中部地方には500年かかった、南関東へは600年~700年かかったと考えています。時代区分で古墳時代に入った時にも、東北地方には稲作農耕の技術が伝わっていませんでした。つまり、まだ縄文時代と言えます。東北北部にはさらに500年かかって伝わったと推定されています。水田稲作が、非常にゆっくりと各地に広がっていったことが、ここからわかります。ヒッタイト滅亡後の鉄器の製造技術の伝播のほうが広がる速度としては早いんです。気候は関係なく、鉄はどこにでもあるからですね。どちらかというと緯度の近い地域、つまり横に広がりましたが、それは馬や人が往来しやすいから。稲作を伝える人も、東北と言うと、気候が違うので少し足が止まったのかな。当時の米が寒さに弱いというのもありますね。
殷や周では貴族のみ使う紋様がありますが、弥生土器にそうした身分の差はないそうなので、実際に身分差のない社会なのかもしれません。身分差はお墓の大きさ、棺やお墓に入れる副葬品でもわかりますが、そこにも差はないのかな。

□□アメリカ大陸
□□中米

メキシコ中央高地では、トラランカレカという都市がBC600年-BC300年に最盛期を迎えています。ピラミッドは、タルータブレロ方式の建築です。階段状なんですが、階段には踏板と蹴込み板があります。蹴込み板は、上っていると爪先が当たりそうになる部分がありますね。地面に対して垂直の面です。この部分が斜めになっているものをタルータブレロ方式と言います。漆喰が塗られていたりします。もう漆喰があったんです。無文字の石柱(モノリス)も建っています。
サポテカ文明の成立はいつなのか研究者の間で定まっていません。
BC1400年頃と言う人と、BC900年頃ではないかと考える人と、BC600年頃だろうという人がいるんですけど、遅くともBC500年頃には高原部のオアハカ盆地に成立しています。
先生は
「試学生は、オアハカ盆地(おあ!墓)にサポテカ文明(さぼってるか?)と憶えてもいい」と言っていました。
人口は12~20万人。当初は盆地の谷集落にあったんですが、周囲との争いが激しくなってくると、防御性を高めて高台/丘へ移ります。平城から山城への感覚です。モンテ=アルバン遺跡などの祭祀センターを持ち、徐々に王を神格化、王墓を作るに至ります。モンテ/MONTEは山(MOUNTAINマウンテン)の意味です。BC300年-BC100年に、モンテアルバンが中心になって、他の都市を統一していきます。王の即位、戦争史、260日暦、365日暦を記した碑文が残されています。規格化された神殿や、I型の球技場が各地に作られました。

サンロレンソに継続していたオルメカ文明は、BC400/300年頃に滅亡します。

グアテマラ、メキシコ南部のマヤ地域/マヤ文化は先古典期後期(BC400-AD250年)に入っています。マヤ人は民族名ではないとする学者が主流になっています。マヤ文化を継承している人たちをマヤ人というそうです。21世紀にもマヤ諸語(いくつもあるマヤ系統の言葉)を話し、森深くにある神殿に行く人もいます。
マヤ地域では、サクベと言われる街道が各都市を結びます。ナクベ、高地にはカミナルフユなどの都市が発達してきました。ナクベはこの時期に45mの高さを持つ神殿ピラミッドを作っています。3つの神殿を基壇上に作ったんです。すごいですね。
ハイナ島に居住が開始されています。男女、動物の彩色土偶が副葬品として出土しています。
タバスコ州北部・カンペチェ州西南部で制作された土偶はハイナ、ベラクルス、ユカタン州、キンタナーロのシェルハにまで交易されました。サクベを通じて遠隔地交易が機能していたとわかります。そして、土偶が交易品になっていたこともわかります。マヤ文化は長く続く上に、ゆっくり変化していったので、時代ごとの出土品が多いんですね。だから、日本を含め、各地の先史時代と比較して研究するのに、とっても役立つんだそうです。マヤで起こったことは日本でも起こっていた可能性があると考えられるからです。日本でも大型の土偶が交易品になっていたのかもしれません。そうして技術を学んで、似た土偶を作ったのかもしれません。例えば、遮光器土偶は東北の物ですが、模倣品が関東、近畿で出土しています。

ホンジュラスの西部では、ロスナランホスという都市がBC400年ころに人口1000人くらいでした。高さ19mの建築物があって、2mを越える防御壁があって、深さ7m幅20mの濠で囲まれていました。争いが激しかったんだと思います。
ジャルメラは先古典期中期から後期に、河岸段丘に立地していた都市で、遠距離交易でカシューの木、黒曜石、ヒスイ、さらに大理石の容器を輸入していました。必需品も奢侈品(しゃしひんと読みます。ぜいたくひんですね)もあったのかな。
もっと知りたい人は「古代メソアメリカ文明」(青山和夫.講談社メチエ.2007)
や、「マヤ文明を知る事典」(青山和夫.東京堂出版)や、「岩波 アメリカ大陸古代文明事典」(岩波書店)を読んでくださいね。

□南米

ペルー海岸部のチャンキーヨ遺跡は三重に円形の壁で囲まれた都市です。城砦だという学者がいます。
パラカス文化。墓と、見事な衣装と織物のミイラ包みが大量に出土しました。焼成後に、樹脂製の顔料を充填する土器が特徴的と言われています。幾何学文様、猫の図像なども土器に見られます。

今回はBC500年-BC334年の世界を書きました。
次回はBC334年-BC133年の世界を書きます。
アレクサンドロス大王の帝国、ローマが地中海世界の大部分を制覇、秦の統一などの時代です。
次の皆伝 世界史08はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/ncedb00af1079

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