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『シャク』っと白い

 桜の散る季節でした。ぽつぽつと若葉が芽吹きだし、並木は新緑へと一気に舵を切ろうとしていました。空気もポカポカとあたたかくなり、薄い長袖シャツの下を、さらっとした風が通り過ぎていくのが気持ちよく感じられる時候です。


 その日の午後は、雨でした。もんやりした雲が街の上にわきあがり、ぬるい雨をしっとりと降らしていました。わたしは、水たまりにはまってぐしゅぐしゅした靴のまま、上水沿いの道を下っていました。こっちは遠回りですが、車が少なくて歩きやすいのです。散ったばかりの桜の花びらが浮いていて、薄桃色の水面の下を、透明な水が流れていきます。

 傘をさして、一人きりで歩いていました。授業がずいぶん早く終わったせいか、学校の人も近所の人もおらず、辺りはとても静かでした。春の雨は、しとしとと優しく降りそそいでいました。雨は桜色のヴェールとなって視界を覆い、まるで夢の中の風景のように幻想的な光景に見えました。

「シャクっ」

 水と枯葉と柔らかい何かが、押しつぶされた音が響きました。なぜだか足がピタリと止まり、わたしは傘の柄をぎゅうっと握りしめました。大きな水玉が、幾度かビニール傘にボツッと落ちました。カタツムリが、黒々した桜の幹を、ゆっくりとはい上りました。

「……気のせい?」

 そう思って足を運びますと、また、

「シャクっ」

と、音がしました。今度は、はっきりと聞こえました。

「……シャクっ……シャクっ……」

 わたしは、上水の手すりから身を乗り出しました。桃色の水面の行方は、大きなあくた留めです。太い鉄の格子が水に向かって斜めに突き刺さっていて、ごみや枯葉がからまっているのです。散った桜もからまった、薄桃色の、得体の知れない塊が、ブクブク白い泡にうごめいていました。

 その格子の中に、白い影があったのです。向こうをずっと向いている、白い影でした。わたしは目をこらしました。花だまりとも言うべき薄桃の水面から、これまた白い足首がすっくと伸びていて、病院の壁のように白い布で、もものあたりから覆われているのです。

 体が固まりました。良くわからないものを見ると、人は叫ぶこともできません。ただ、黙りこくって視線を向けるのみです。白い影は、水の中から何かを拾い上げているところでした。それは、とても小さなものでした。わたしは目をこらしましたが、雨にけぶって良くわかりません。白い影は、それを口に近づけます。そして、シャクっと食べました。

 いつしか、雨は冷たくなっていました。季節外れのみぞれが、桜の花びらを、わたしを濡らしました。わたしは傘の柄を握りしめ、ただ、白い影を見つめました。

「何してるの?」

 突然声をかけられて、わたしは文字通り飛び上がりました。傘が手から滑り落ちて、上水にパシャンと落ちました。振り向くと、そこに立っていたのは、写真部の男の子でした。彼は、

「あー、流れていっちゃった。もったいない」

なんて言って、桃色の水面にカメラを向けました。それから、新緑のアーチにレンズを向け、シャッターを切りました。

「どうしたの? そんな青白い顔して。弁当食ってないの?」
「……食べたけど」
「それに、なんでそんなに濡れてるんだよ。傘さしてた意味ないじゃん」

 男の子は、プイッと行ってしまおうとして、ちょっと見返りました。あんまりわたしが無言で、ずっと立ち止まっていたからでしょう。「入れよ」と黙ったまま、傘を持ち上げてくれました。

「気のせいじゃないの? 風が吹いて、ごみとか枯葉とか入ったんだろ。タオルが流れ着いたとか」

 男の子は、片手で器用にカメラのシャッターを切りました。丸い波紋の広がる水たまり、赤いテールランプの反射している大通り、軒先に咲いている植木鉢、水玉の中で逆さまになった街。

「そうだといいけど」

 わたしは、とりあえずそう返事をしました。男の子は、傘をくるくる回しながら、カシャカシャ歩いていきます。写真部は気楽だな。わたしは彼を、ちょっと羨ましく思いました。


「ああ、来たね」

 白いパジャマに熱さまシートをおでこに貼った男の子は、赤い顔のまま玄関扉をちょっと開けました。ふらふらした足取りについていくと、そこは真っ暗な暗室でした。光が入らないせいか、昼間なのにひんやりしました。

「……これ。見える?」

ペンライトに照らされたのは、小さなネガフィルムでした。わたしはそっと、熱を帯びた手からネガフィルムを受け取りました。

「熱のせいだといいけど……」

 ケホケホと空ぜきが響きました。ルーペで拡大した先にあったのは、格子の向こうで笑みを浮かべた、『シャクっ』と白い横顔でした。

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