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オウムとエロ 昭和末期の下半身事情

数日前に書いた「江川紹子が歴史改ざん?」は、多くの方に読まれているようで嬉しい。

記事にコメントを寄せてくれた方のなかで、オウム真理教の初出は「月刊ムー」ではないか、と書かれている人がいた。

そのコメントを読んで、思い出したことがあった。


オウムを一般の人が知ったのは1989年(平成元年)の「サンデー毎日」の報道だ、とわたしは書いたが、当時の若い人たちは、それ以前から知っていた。

麻原彰晃は、1985年(昭和60年)から、「ムー」のようなオカルト誌、「週刊プレイボーイ」など一般誌にも登場していた。読者はおもに若者だった。

わたしも当時は20代の若者で、麻原もまだ30前後だ。

わたしが麻原を最初に見たのも、1985年ごろ、書店で偶然手に取ったオカルト雑誌(ムーではなく、もっとマイナーな雑誌だった)の「空中浮遊」写真だった。


そのころの書店風景を思い出すと、オカルト雑誌のとなりにあったのが「写真時代」「ウィークエンドスーパー」などのエロ雑誌だ。

当時は、日本の「ヘアヌード解禁」目前の時期だった。末井昭の白夜書房と官憲が、「毛をどこまで許すか」でせめぎ合っていた。

局所を写したエロ写真のたぐいは昔からあったが、ビニール本を含め、一部の限られた場所で流通していた。それが、一般書店に並んでいたのだ。


「今月号はどこまで写っているか」が楽しみで、わたしは毎月、それらの雑誌を買っていた。

ヘアヌードを推し進めている勢力は、団塊世代の左翼(でドロップアウトした人)が多かった。(糸井重里などの、その世代の文化人が、読者の「エロ雑誌を買う恥ずかしさ」を消すために、こうした雑誌に登場していた)

それが、ヘアヌード解禁の象徴とされる、1991年発売の樋口可南子=糸井重里夫人=や宮沢りえの写真集につながっていく。

当時はまた、レンタルビデオが流行りだしたころで、オモテで売られるアダルトビデオはまだ少なかったが、裏ビデオのようなものは存在した。


当然ながら、ヘアヌード雑誌は、男の子たちに大人気だった。コンビニ(まだ数は少なかったが)でも売られていたと思う。エロ雑誌の自販機も見たことがある。

若者に性の悩みはつきものとはいえ、このころは、いつの時代にもまして刺激が多く、男の子が悶々としていた時代だったのだ。


そうしたエロ雑誌の近くに、麻原の本は置かれていた。

当時、わたしも麻原の本をいくつか読んだ。

わたしにいちばんアピールしたのは、

「オナニーをし過ぎると、精神エネルギーが失われる。そんなことはやめて、精神エネルギーを高める『修行』をしろ」(表現はちがうが、そういう意味のこと)

という主張だった。


世の中はこぞって、若い男の子の「精神エネルギー」を失わせる方向に動いていた。

若い男の子たちは、「精神エネルギー」をどんどん放出していた。

そのことに、罪悪感や不安感をもっている子も多かったはずだ。


麻原の「教え」は、年上の「アニキ」からの、耳が痛い、しかし有益なアドバイスに思えた。

そういうことを言う人が、まわりにあまりいなかったのだ。

まじめな男の子ほど、それを傾聴したのではないか。

わたしは「小説 平成の亡霊」に、麻原の影響で禁欲する男を登場させている。


もちろん、わたしがオウムに入信することはなかったが、麻原の本は、当時の若者の悩みや欲求に、的確にこたえていたことはたしかである。

オウム真理教が流行った背景として、オカルトブームや、バブル景気がよくあげられるが、こういうエロの背景は、触れられず、忘れられていると思う。

なお、この時期から、若者の「非婚」傾向、すなわち少子化が始まる。



<参考>





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