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【読書】砂の女(安部公房)

 2024年2月23日(金・祝)、安部公房の『砂の女』を読み終わりました。記録を残します。

■作品について

 『砂の女』は、1962年に小説家・安部公房(1924~1993)によって書かれた長編小説です。新潮社のHP(新潮文庫)より、あらすじを引用します。

砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める村の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のうちに、人間存在の極限の姿を追求した長編。20数ヶ国語に翻訳されている。読売文学賞受賞作。

新潮社HPより

■感想

 今回、新潮文庫の1冊とともに、ガイドブックとして、NHKの番組である「100分de名著」のテキストも用意しました。ガイドは、漫画家、文筆家のヤマザキマリさんでした。

(1)男女の関係

 個人的に一番印象に残った点から記載します。砂穴の底の家に閉じ込められた「男女の関係」です。
 砂は風に舞い空からも降って来ます。そのため、服の中や脱いだ靴の中にも砂が溜まっていきます。「砂」については、無機質で流動的である一方、湿度を含み、付着した木材等を腐らせるとの記載もありました。(ここら辺は、本文を引用したり丁寧に記載出来ればよかったのですが、申し訳ないです。また、科学的に「砂」がどういう性質なのか正確におさえていません。)
 男女は、砂の付着した体を拭い合ったり、肉体的な関係を持ったりするのですが、こうした乾いた砂の世界での湿っぽい男女の関係が印象的でした。(エロいというか、官能的というか、表現が難しいです。)

 この男女の営みが第一感想であり、やはり私は、近い距離でテキストを読む傾向にあるようです。

(2)安部公房の家族観

 次に、昆虫採集に出かけ、砂底の家に迷い込んだ「男」について引用します。

名前は仁木順平。31歳。身長158センチ、体重54キロ。髪はやや薄くオールバック、油は使用せず。視力は右0.8、左1.0。肌は浅黒く、面長。眼と眼がよっていて鼻が低い。血液型はAB型。角張った顎と、左耳の下にほくろが目立つ以外には特徴なし。舌がもつれたような、まどろっこしい話方。内向的で頑固だが、人づきあいはとくに悪くはない。職業は教師。趣味は昆虫採集。

Wikipediaより。小説内の文章をやや加工。

 「男」は、戸籍があり、定職についています。脱出を試みる話であり、攻撃的に映る場面も多々ありました。他方、「砂の女」は、受け身的な印象を受けました。
 ①個々の登場人物の性格造形にもよりますが、②本作が書かれた1962年の時代背景、③安部公房の男女観・家族観なども影響するのかな、と思いました。特に、③については、他の作品も読んで考えてみたいです。

(3)果たして損害賠償額は?

 ここで全くの個人的感想を記載します。少し話が飛躍しているように映るかもしれません。
 男は「失踪」し、砂底の家に閉じ込められる中で、部落の村人たちに、「法的に訴えてもいいんですよ!」といった主張をします。
 ここで私の頭をよぎったのが、以下のような問題点です。

  • 日本は法治国家ですが、問題が「法」の及びにくい隔絶された地域で起きたらどうなるのでしょうか。

  • 仮に、部落の人たちに対して権利の実現(民事的な損害賠償)が出来たとしても、それほどの金額にはならないのではないでしょうか。損害賠償額算定の問題。

  • 社会的なニュースになれば、大問題になるかもしれませんが、死人(失踪者を含む)にくち無しではないでしょうか。一人の人権は地球より重いと言いつつ、気づかれなければ知らん顔される(多数決の原理で動かされる)ように思いました。(逆説的に、そうした現実があるからこそ、「基本的人権の尊重」は謳われるのかもしれませんが。)

  • 「権利意識」の問題。「男」は、比較的「権利意識」が強いような気がしましたが、男より長くこの地に住む「砂の女」は受け身的で「権利意識」が弱いかもしれません。こうした権利の主張が出来るかも、法的解決の重要な要素に思います。

  • 社会的に抹殺される可能性について。相対的な問題かもしれませんが、社会的立場が弱い属性はあるように思います。定職についているか、経済的に自立出来ているかなどの側面や、交友関係の深さ・広さ、自分から主張するか(出来るか)否かなどの側面。策略として、人を陥れることも出来るのかもしれません。陰謀というのでしょうか。書きながら、自分でも怖くなってきました。私たちは、無意識的にも、自分の「存在」のために戦いながら生きているのかもしれません。

(4)自由について

鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。

『砂の女』単行本の函より

 この引用から少し外れてしまい、(3)の延長になるのかもしれませんが、①プライバシーなど個人の自由と、②孤立することの恐怖、のバランスについて考えさせられました。大上段に映るかもしれませんが、「人間」とは危うい存在なのかもしれません。

 そして、「一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか」、ラストは読者の読み方に委ねられているように私は思います。私は「男」が、問題を棚上げ(先送り)したように感じました。「希望が差し込む」ことの本質(日本的かもしれませんが、受け止め方の問題にしがちであり)について、もう少し考えてみたいです。

(5)作者・作品の時代背景

 最後に、安部公房が書いた本や、同氏について書かれた本の題名などから、私は戦後、高度経済成長を生きた人のように、勝手に(!)思っている部分がありました。しかし、安部公房が生まれたのは1924年、終戦時に既に20歳ぐらいです。三島由紀夫が生まれたのが1925年で、同世代の人です。
 完全に私の勉強不足のように思います。「都市」や「SF」についても、どういった時代に生まれた概念だったのか、もう少しきちんと学ぼうと思います。

■本作の転用

(1)映画

 小説『砂の女』は、1964年、勅使河原宏てしがはらひろし(1927~2001)監督、岡田英次(1920~1995)・岸田今日子(1930~2006)の出演により、映画化もされています。こちらも有名です。
 まだ鑑賞していませんが、YouTubeで、(当時の)宣伝用の動画を見ると、小説を読みつつ頭で想像していたイメージと、それほどずれておらず、少しほっとしました。相変わらず気が小さい私です。

(2)舞台

 先日、早稲田大学の鳥羽耕史教授、桐朋学園短期大学のペーター・ゲスナー教授の話を、読書会で聞く機会がありました。ペーター・ゲスナー氏は、旧東ドイツ出身、日本在住ドイツ人の劇場監督と演劇指導者です(Wikipediaより)。『砂の女』を舞台化したことがある話もありました。

 話が少しそれてしまいますが、佐藤信さとうまことの劇団黒テントの話や、唐十郎さん、寺山修司さんの名前も出て、アングラ演劇の話もありました。私は、あまりアングラ演劇は観にいかないので、少しでも話が聞けて良かったです。
 他にも、勅使河原宏の生け花・草月流の話、鈴木忠志の「スズキ・トレーニング・メソッド」の話、千田是也せんだこれや岸田國士きしだくにおの話、磯崎新いそざきあらた、岡本太郎の話、佐藤正文さとうまさふみの話、「世紀の会」の話など。安部公房を取り巻く人々の話なのでしょうが、私は初めて聞くことが多く、調べてみたいなと思いました。安部公房が生きた時代に触れることも面白そうです。

■最後に

 安部公房が生まれたのは1924年。今年、生誕100周年です。これからイベントなどを見かけることがあるかもしれません。また、ベルリン映画祭でも映画『箱男』が有名になっているようです。
 私も、出来だけ多くの作品に触れてみたいと思います。

 本日は、以上です。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。冒頭の写真は、「砂丘」「風紋」で検索し、Uchidaさんの作品を使用させて頂きました。こちらもありがとうございました。

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