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自分の行動が誰かの行動に

「やってくれたから自分もやらないとと思ってやりました」

仕事場には様々な物品があり、今一つ整理されておらず、ロッカーの前をいつも邪魔していた。邪魔だとは分かっていたけれども、ロッカーを使うときにどければ問題ないだろうと思い、そのままにしていたのだ。しかし、あるとき、その物品の配置が変わったのだ。上手いこと見つけたちょうどいいスペースに、その物品たちの居場所が出来ていた。どうやら、彼がやってくれたみたいだ。彼とは、同じ職場の人間である。邪魔をしていた物品がなくなり、スペースが生まれ、その場所の行き来がスムーズになったことに非常に快適さを感じていた。僕は彼に言った。あの、移動いいね。そんな会話から始まり、言われたのがこの言葉だったのだ。

言われたことはもちろん、ありがたさを感じた。自分の行動に対する恩返し的な感じも含めているのだろう。しかし、そこで僕は何となく感じたのだ。これ、自分が行動したことで、相手の行動を変化させたのかも知れない、と。久しぶりの感覚だった。ということは、どうやら僕は行動しているつもりだったが、それは本当にただのつもりでしかなかったのだろう。そのことに気づかされた。これには、少々脱帽だ。本当に自分は小さいかもしれないけど、コツコツと行動してきたのだとは思っていたが、それ自体は全く意味がないとは言わないが、影響という意味では大したことがなかったのだろう。しかし、自分の中での内省などの面では大きなストックをしてきたことには違いないと、そう思いたい。それにしても衝撃的だった。こんなに自分の行動が影響を与えていることを実感するとは思ってもいなかったのだ。しかし、その僕もまた彼から受けた行動や発言のおかげで自分自身が行動を起こしていたことに、今また振り返ると気づいた。そうか、これが行動の連鎖か。とまた、ふむふむと納得。ということは自分が行動を止めると、周りの人の行動も止めかねない。逆に自分が行動し続ければ…ってまた同じ繰り返しになってるが。それにしても、もしかしたらこれは物凄く恐ろしいことなのかもしれないと感じたり。自分の行動次第で、誰かの行動を左右しかねないのだから、あながち他人と言えど責任がないとは言えないのである。たとえ、自分の周りに行動が止まっている人がいても、自分が行動していれば、その連鎖はきっと起こる。それはときには、誰かから皮肉や批判を受けたりするようなこともあるかも知れないが、何も言わないことが楽、そんな暗黙の了解が充満している組織や人間関係では決して充実している時間を過ごすことはできないだろう。

年齢を重ねてきた人たちを相手に仕事をしていると、ついその過ぎる年月の早さを感じさせられる。もちろん、その早さは誰しも同じなはずだが、体感速度が全く異なるのだろう。しかし、その時間を濃くすることは誰にでもできる。そしてその濃度もまた自分で調整することもできる。どうやら僕の濃度はまだまだ自分が想像しているよりも薄いみたいだ。理想はもっと濃く、深みのある抹茶のような。何も行動しないときは表面上は薄く、飄々としているが、一旦振ると、つまり行動し始めると、一気にその濃さが全体に広がり、全てを覆いつくすような。そんな濃い時間を過ごしたいものである。

それにしても行動ってのは、自分のためだけにあるものではないようだ。

~fin~

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