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生存報告と箱コレクションの話

 ご無沙汰しておりました、院生です。2021年の暮れに一次資料となる史料の所在を知り、貴重な箱の残骸に巡り合い、現在は対博論人型執筆マシーンとして博論(と査読結果待ちの投稿論文)を執筆しております。
 久しぶりにこうして筆ならぬnoteのキーボードを打ち込んでいるのは、博論執筆下の環境で新しい習慣をできればやりたいと思いつつずっと踏み切れなかったことがあったからです。というのも、昨年末の学会のお仕事的なことで大御所の先生から、先生や私のような芸術学的史学で史料・コレクションを持っている人ならやるべきとしてコレクション備忘録を勧められたのです。本日は、一度この空白の2年(最新記事を見たら2021年でした…!)に目まぐるしくも急発進した研究の話とコレクション備忘録の話をしたいと思います。


本日のお品書き

  • 日課としての備忘録

  • 2021年:コロナによる学会の皺寄せと史料の存在

  • 2022年:問答無用のリジェクト論文と環境変化

  • 2023年:5年目を迎えて

日課としての備忘録

 この項目にかんして、最後書こうと思っていたのですが振り返りが思いのほか長すぎて最初にしました。
 結論から述べますが、午前のルーティーンとしてコレクションである箱のメモ書きをnoteに置いておきます、ということです。アナログの記録としても整理を含めてなのですが、デジタルでもアーカイブということでnoteを全然使っていなかったしせっかくなので使おうと思った次第です。
 上にも書きましたが、昨年末に学会のお手伝いで大御所の先生とお話をしていたさい、史学研究でコレクションを持っているなら持っているだけじゃなくてまずは整理しながらその時思ったことをメモに残すべきと。それが本業ではなくてもこうしたコレクションをめぐって別の仕事が入る可能性もあるし、自分の研究として今後見返すことになったとしてもその時はどう思っていたのかを思い出せるから、という実に堅実なアドバイスをいただきました。先生も研究者でありながらコレクターとしても活躍されているからこそだなと感じました。
 私自身、研究がそれこそ戦前から戦後にかけてのコレクターの史料に救われており、コレクションのありがたみを感じているからこそなおさら集めていた箱を観察したり残しておきたいなと思ったのです。また、そのさい先生から専売公社時代の記念たばこの空き箱をたくさんいただき、1日1個なら習慣化できるかなと思った次第です(土日はちょっと一旦除きます)。というのも、実はこの2年ほどで薬を変えたこともあり、減薬したり少しだけ鬱抜け的に頑張ったりすることができているからです。そうはいってもこの寒波でまだ朝が弱いこともあり、博論執筆中のやつが…と思いながらもようやく毎日ちゃんと朝二度寝せずに起き続けることができるようになりました。博論を執筆するのは今絶賛執筆フィーバー中なので楽しい反面、体力を使うので午後の一番元気な時にガーッと集中して書くのが今自分のペースで一番罪悪感がなく論文を毎日執筆できるのです。
 最近は午前に罪悪感を感じたくないので先行研究レビューを博論で書いていることもあり、より読書習慣をつけたかったので文献購読を午前にやってノートにまとめています。午後はガッツリ執筆して、夜は30分ほど、主人がお風呂の間に日記をつけたり絵を書いたりしています。この趣味の時間を一回取っ払ったことはありますが、途中で発狂しかけました。なので必要最小限でもいいから設けています。論文が苦になった瞬間にダメになると思い、去年は一度親にも体調を優先してくれと懇願されたほどです(金のことで発狂しかけて圧かけられましたが…)。最近は薬剤師さんにも前より顔色が良くなったとか言われたりします。
 そんなわけで、博論を書くには朝から重いけれど朝からデスク(PC作業)に向かう習慣はつけたいと思い、まずは先生からいただいたたばこの箱からメモを残していきたいと思います。あと他の箱は実家に死ぬほどあるので、都度紹介できたらたばこだけでなくお菓子の箱などもできたらと思います。

2021年:コロナによる学会の皺寄せと史料の存在

 2021年の最後の記事はすっかり忘れてしまいましたが、要約するならばこの年は踠きに踠いた1年でした。それと同時に研究に一縷の望みが見えた貴重な史料に出会えた年でした。

学会の皺寄せ

 まず学会の皺寄せについてです。これは、当時本校もまだオンライン授業がほとんど(と後輩から聞いておりました)で、院ゼミがオンラインなのをいいことに秋などは1ヶ月から1.5ヶ月ほどは主人のいる広島で生活をしておりました。また、この時くらいに実は広島市内、しかも駅近物件へのお引越しもありその準備や新居での荷解き等もあり、広島の郊外1LDKと同じ家賃で市内の駅近1Kへと引っ越しました。まあ、最初こそ1K?とも思いましたが、メインとしては彼が1人暮らしをしているようなもので私がいるのも春と秋の1〜2ヶ月ほど。鉄筋のマンションでとても静かだし、以前のところよりもやはり都市としては栄えていたので東京の郊外のような、それでいて東京ほどせかせかしていないところでとても快適でした。
 少し脇道にそれましたが、怒涛の学会ラッシュでした。それも大した進捗がないものの。なぜなら、夏休みに予定していた一次資料の提供の協力依頼が惨敗に終わり、これ以上問い合わせようものならブラックリスト入りというくらい企業から目をつけられてしまいました。(手紙と財団へのメール、先行研究の論文の謝辞から遡ったり学会の先生から伺った方への連絡を会社宛に行っていました。)修士の時と異なるのは、そこが大手というか老舗なのは変わりないのですが土着ゆえのオープンな企業ではなく、巧みな手腕を持っているからこその機密情報や外部に出せない史料の宝の山だったからです。企業内に史料室も持っていたほどです。そこの史料を拝見したかったのですが、色々と社内編成やミュージアムの関係で史料室が広報と合併して消失し研究者にも公開しないとのことになっていたのです。(これは私が特に目ぼしい業績がなかったこともありますし、企業の違いは覚悟していたのですが…)あまりに断られ続け、過去の研究助成でお世話になっていた資料室で入手できるほどの情報をお情け程度にいただいたのみでした。
 ほぼ収穫がゼロのまま、史料もなく後期に突入して待っていたのは前期の緊急事態宣言で軒並み中止や延期となっていた学会のオンライン開催でした。11月、学域内の博士論文の受理要件である英語口頭発表と思ってとりあえずのこれまで掻き集めてきた史料と作成してきたデータベースで英語口頭を行いました。結果的に学会発表というか研究会の報告にあたるのでバツになり、翌年の学会発表で英語口頭を行いました(が、これもちゃんと日本発だけれど国際学会として動いている裏どりをしないといけなくなった…)。その直前には、研究助成の研究計画書の締切が迫っておりドタバタ。翌週には学域内の期末審査があり、その翌週には別の学会での発表を控えていました。この時ばかりは流石に、後からいろんな先生に忙しかったね…と同情されました。そうやって過ごした暮れですが、気づけば12月も後半に差し掛かり、史料のないまま博論を書くのかと途方に暮れていた矢先に光が差したのは、大学のメインキャンパスの図書館に足を運んだ日でした。

ふと手に取った1冊の本

 「私の人生は1冊の本が変えてくれました。」とか「この本に出会わなければ私の人生は…」というような宣伝コピーそのままの体験でした。
 デザイン史やデザイン研究関連の棚を一度離れ、文化史系の棚で1冊の本を手にとってパラパラとめくって、目についた奇妙な名前。それが民俗学や風俗史ではそこそこ名の通るコレクターでした。彼がいなければ私の研究は今頃どうなっていたかわかりません(どちらかといえば私の専門の箱よりも風俗的なコレクションが有名です)。私の欲しかった史料や見たかったものは彼がこの世に遺して下さっていました。調べてからすぐに研究のことや事情をつらつらと書き記し、先方の返信を待ち、その間にはもうそのコレクターについても下調べをガーッとしていました。先方は快諾してくださったものの、美術館や博物館ではないのでと史料の状態や量が膨大すぎるので絞ってくださいという断りを私に入れてくださり、年明けに見学に行けることになったのです。
 時を同じくして、英語で行っていた報告会の発表をご覧くださっていた先生からお声がけいただき、助教や外部副査であるもう一人のゼミの先生も顔を出されている研究会で発表してくれないかというお誘いがありました。こんなことってあるのか、と思いながら、発表関連でこうしてお声がけいただくことは初めてだったのでもちろんです!と即答して一層メディア研究者の集まりへと顔を出すようになっていました。むしろこの辺りから、私はデザイン系の学会へ顔を出した記憶がありません。所属している歴史系のところとメディア系のところくらいです。デザイン系の学会と言ってもそれこそ工学デザインからデザイン史といった文理の領域に寄ったものもあります。私が所属していたのは作品も扱う工学系で、修士の時は色彩学や色面積といった数値データばかりで通用したのですが、今となっては完全に史料第一です。そんな研究に史料がないまま博論を執筆するのは不可能に等しいと今でも思います。もっと早ければ…!と思ったこともありますが、きっとそういうタイミングだったんだと思います。

2022年:問答無用のリジェクト論文と環境変化

 さて、戦前の紙媒体という貴重な史料群が見つかり、研究に一縷の望みが見えたところでした。この年は本当に色々とありつつも充実度や鬱抜け的に自分の機嫌取りが少しずつできてくるようになってきました。今もマイペースは試験的ですが、わりとハマって動けています。その土台となった2022年、たくさんの先生方や研究者仲間に助けられました。

リジェクトに反論の余地がない、これが査読者ガチャ…?

 1月から断続的に史料を拝見しに通い詰め、そこの史料担当者からは年度が変わると担当者が変わるとのことで、結果的に4月以降ははじめましての方に私の情報が引き継がれました。
 メディア研究系の先生方の研究会や学会発表にも参加しており、春は対面とハイブリッドで開催ということもあって久しぶりの先生方や博士仲間にも会えました。新たな先生との出会いがあったり2徹してPDに落ちたりと、そこそこまだ苦しんでいる時です。史料をもとに投稿論文を出せまして、ようやく博士研究のボディに大きく引っかかるような論文…となっていたのですが、それまで論文があまり書けなかった背景に、リジェクト恐怖症がありました。そんなのいくらでも…と今となっては思えるのですが、D2の時の査読コメントの二極化がどうも受け止めきれず、当時は論文を書くことにあまり前向きになれませんでした。とはいえ発表しないと何もないのですが。
 コメントの二極化はよくあることというのも、博士仲間と話していてようやく「あるあるなのか!え、A氏みたいな優秀(だと私が思っている)博士生でもこんなリジェクトのコメント?」とか思えるようになりました。仲間大事…(まずうちの学域の博士が少ないことと文系系を共有できる人がいなかった…)。そして、春に知り合った、学会論文賞も受賞したような先生がなんと私の研究に関心を持ってくださって(プライベートでもお茶しに行ったりしておりますが)とても励まされました。先生の研究対象が私と時代がほぼ同じことや、デザインの話だけどとてもメディア論に応用がきくので読みたい、博論本いつ出すの?(まだ博論書いてる段階なのに…)、読みたいから書いて、などとても元気が出ました。というのも、私が先生の論文分析をしたり博論本を拝読して質問したかったりしたのに、私の研究の話に改修されてしまって過去の論文も読みました〜面白かった、と言われて身が縮こまりそうでした。こんなに書いて書いてと言われたことも初めてでしたし、私の研究を面白いと同時にこっちの分野に貢献の余地があることを教えていただいたも同然でした。その時に来たのが、前の段落で少し触れた投稿論文のリジェクト通知でした。
 とりあえず早く出したかったのと、デザインには関連していたのでデザイン系の方へ出していました。今までで一番内容的にも面白いし精力的に書いたと思ったものですが、「不採択」。その一言で、修正の余地もなく、再投稿もできない。査読コメントは二極化こそなかったものの、理不尽。流石に指導教員や文系系の助教、そして副査でありD持ちの教授にも査読コメントに関しては満場一致の理不尽、D持ちの副査に至っては「査読者ガチャじゃん。」でした。何が腹が立ったのか。
1)一次資料を提示しているのにウェブで検索したデータを突きつけて年月日の指摘をしてきた(一次資料とウェブ検索の比較って何?歴史研究の意味なくない?)
2)学会のテンプレートに合わせた図表がズレたのは指摘されてもわかるが、直近の採択論文が私と同じような図表の前後を行っている(そもそも論文読んだりしてないのでは、採択された論文との差は?)
 以上の2点がとりわけコメントのなかでも腹が立ちました。今はまあ、もういいやとなっています。このリジェクトによって2022年度修了のスケジュールは崩落、指導教員ともスケジュールの共有ができていなかったこともありますが、10月末くらいに精神的に落ちます(主に金銭面や親の博士課程に対する理解度などです、論文に対してではなく)。
 とりあえず副査の先生にはすぐに再投稿だと言われ、悩みつつデザイン系を探す。しかし、メディア系の方での知り合いにもしかしたら非常勤紹介できるかもしれないから1個はメディア系の論文あると嬉しいと言われていたこと、そして私の研究発表の場や研究を面白がってくれる先生方の領域はメディア領域だったことに気づく。あ、私ってデザインの研究だけどデザイン業界では必要とされていない…?むしろ歓迎してくれてる方にいった方が絶対FBもらえるのでは…?と悟りはじめます。よくよく考えたらもはや工学デザインではなくなっているし、デザイン史というよりかは指導教員と二人でもそもそと考えた結果、私は文化史のような領域らしいということがわかりました。マイナーだけれど存在しているデザイン文化史、というところに今足場を置いています。それも、デザイン関係の方面で私と同じ手法をとっている先生がその分野を名乗っていたこともあります。
 そこからの蘇生は早かったです。ならばこっちから願い下げだ〜と思いながら、デザインを武器にコミュニケーション研究を介してメディア領域で発表や現在も再投稿で査読結果待ちです。再投稿のは、締め切りが奇跡的になる早で出そうとリスケした月末と合致したのでメディア系に出そうと決めました。この修正論文は前述の激励してくださった先生の論文分析もしたりして論文の型をわりと実践として行ったものです。この時ばかりはもう史料が史料なので早く出てほしかったですし、先生のおかげでリジェクト恐怖症は脱していました。なんなら今はアウトライナーにこの夏に口頭発表したネタ(これが実は日本のメディア研究をされている向こうの先生に刺さった…)の論文骨格があります。こっちも本当は書いて出したいのですが、優先順位をつけるとすると、やはり博士論文なので今は何も邪魔のない状態で博論に一括集中しています。おかげで今は自分の機嫌を伺いながらも毎日ちゃんと執筆することができています。

環境の変化:引越し再来

 さっき引越しのことを書いたばかりじゃないか!と自分でも思います。実に単純なのですが、主人が東京に戻ることを希望しており転職をしました。変わらずインハウスのプロダクトデザイナーですが、ブツが違うので前社のスキルにさらに磨きがかかっていてこっちもプロダクトデザインの視覚表現を見ているので面白いです。ということで、実は都民に戻っております。出身はその南の県なので心はそのままなのですが。そして、もちろん広島よりも家賃が高く、前と同じ1Kでも同じくらいか少し高めです(当時私も勘違いしており、進路で運が良ければ京都に行くかもとか言ってたので物件サーチ当時はもちろん彼の一人暮らしの体でした)。結果的に、私のもう一年の在学が決定したので大学にも近いので転がり込んで、結婚3年にして初めて同棲(?)というか同じ屋根の下に暮らしております。同じ間取りといえど少し数字的には狭いのですが、大物家具は向こうで捨ててきたことや彼の空間把握スキルなどで天井高のレイアウトになっておりなかなか狭さは感じません。少しうーん、と思ったことは工夫すればなんとかなることが多く、今は家で執筆することが多いのでデスク周りが私の機材をたくさん投入しており執筆環境はありがたいことに実家の時よりも整っているかもしれません。
 強いていうならば本棚を置くスペースがなかったので、本棚を設置したいと言ってクローゼットの中にしこたま本を持ち込んでいるくらいです。実家の本をもう少し持ってきたいところでもあります。実家や姉の家にも電車一本で行けて、彼の実家にも特急には乗りますが一本で参れるので義両親にもご挨拶しやすくなりました。まあ、盆地なので寒いですし夏は暑くなりますが、修士時代にお互い一人暮らししていた場所に近いのでそんな感じだろうなと想定はしています。去年の結婚記念日は当日にディナーをする(そんな豪勢なものではなくレストランに外食)とか、そういうことができたり家族としての距離感が少し課題になったりとより家族だからこそ出てくるところが出てきたりしました。遠距離の時の短期的な滞在では感じなかったことはもちろんあります。それでも、一年前どころか数ヶ月前まで一緒に住むことさえ考えられなかったくらいなので、一緒に過ごせる時間の大切さを感じるとともに互いの仕事や研究などやることもあるので適当な距離感の取り方などを大切にしていきたいです。前の会社よりも柔軟なので今は週一で在宅をしたりするのですが、案外1Kでも各々空間を見えない仕切りで区切っています…。案外ラク…。

2023年:5年目を迎えて

 迎えて、というかこれから迎えるのですが。博士も今年で実は5年目です。相変わらず学年はずっとD3ですが。助教も5年かかったとおっしゃっていて、最初は4年のつもりだったので親からも4年のはずじゃ…等いろいろと言われたりしました。そんなこと言われても、実際査読論文などでリジェクトが続けば査読に時間がかかるので論文は投稿を逃すとマジで博士のスケジュールがガタガタっと崩れます。それに私のような史学研究で史料を扱うならなおさら先方とのやりとりや、史料の有無から始まるのでかなり時間はかかります。それでもやはり続けていて感じるのは、なぜこれが当たり前だと思われているのか?ということが解明されていないことにあります。
 これは私の研究の動機の1つでもあります。現場のデザイナーさんとも関わらせていただき、Podcastで喋ったこともあります(実は2021年にメディア出演したり、同年秋には外部副査の先生の授業でゲスト講師をさせていただきました)。こうした色々な機会をいただき、なぜ箱なの?と生徒さんから思われていたりお菓子のパッケージになぜフィーチャーするの?なども色々興味深いFBや質問をいただきました。デザイナーさんともつい先日Twitter上でラフな意見交換を行っていましたが、現場の方の視点がいつからその思想のもとで創作するようになったのか。文化史の流れからすると、元々の包装には触れていてもパッケージは扱いにくい。というかあまり触れていない。だからこそそこに足を突っ込んでいるのですが、デザイナーさんは自然発生的にデザイン史の流れとしてそういうものなのでは…という意見を持っておられました。もちろんそういうのもあると思います。ただ、パッケージは商業性の強さゆえにデザインというコミュニケーションツールだということをいいことに「利用」されていると考えることもできます。それが一番の特徴であり、言い方を悪くすれば被害であり、文化史で汲み取れず商学や経営学などマーケットに直結する研究に傾倒していくのかなとも思います。
 パッケージの商業性、売れることが一番、その思想はいつから誰によってもたらされのか。少なくとも自然発生的なものではなかったと思いますし、私の執筆の力量の問題ですが、それはメディア研究におけるコミュニケーション・モデルに置換することができます。なのでメディア研究とデザイン研究とを接地する試み、といつも言っておりますが、共通項からうまく交差点を突いて架橋してお互いの領域に水滴一滴分でも潤いを与えられたらと思っています。一滴でも池に波紋は生まれます。その一滴を抽出するための博士研究であり、4年半(のつもりで動いていますが)の集大成として博論を執筆しております。

 長くなりましたが、本年はnoteを少し動かせたらと思います。どうぞ博論の片手間となりますがよろしくお願いいたします。

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