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【考察】私、グレーゾーンの人かもしれない

うすうす気づいていたけど、気づかないふりをしていたことに、いよいよ、向き合う時が来た気がする。

普段からみなさまに脳内大公開中の私は、
40歳、それをいっそのこと、
noteに書いてみよう、と思った。

そう。

うすうす気づいてたけど、私、
グレーゾーンの人かもしれない、と思います。


英語教室を長年やっていると、
中には困りごとの多い生徒さんもいる。

「困りごとの多い生徒さん」
オブラートに包むと、こう言い換えられるのだと最近学んだ。

他の表現で言うと、
「発達に支援が必要な生徒さん」
「特性のある生徒さん」
「グレーゾーンの生徒さん」
とかも含まれるのかな。
言い方もタイプも様々だ。

これは、発達障害の特性のうち、ADHD(注意欠如・多動症)やLD(学習障害)、ASD(自閉スペクトラム症)などの領域について、医学上は発達障害の基準を満たすほどではないが、その特性が人よりも強い状態を指すらしい。

椅子に長時間座っているのが難しい、こだわりが強い、忘れ物が多い、衝動的に行動してしまう。いろんなタイプの生徒さんが過去にもいた。

私は大学で児童福祉を学んでいたので、発達障害と呼ばれるものの知識は一通り勉強したし、長期の実習でも特性を持つ子どもたちとたくさん触れ合ってきた。

大学1年の時、授業で子どもの発達障害の特徴について勉強した際、まずADHDと出会った。現在の正式名称は「注意欠如・多動症」というらしい。

大学の授業中、簡単な診断チェックリストが出てきたのでちょっとやってみた。30項目中、何個当てはまるかによって、その特性の強さがわかるらしい。

チェックしてみて驚いた。
私は…、まぁ、いい。

なんと兄と母がバッチリADHDだった。

兄においては、30項目中、27項目ヒットという優等生。ものすっっごい納得した。

とはいえ、授業で試しにやってみただけだし、母も兄も診断を受けたわけではない。でも、小さい頃や学生時代の兄の姿を熟知しているからこそ、きっとそんな特性はありそうだな、とは思う。

家に帰ってすぐに兄に伝える。
お兄ちゃん絶対そうだよ、と言う私と、まぁ、たしかにそうかもな、という兄。
そして「私は絶対違う。」と認めない母。
私から見たら、母の方が断然特性が強い。

実は私にも、欠陥が多い。
と、チェックする前から薄々気が付いていた。私も注意欠陥のスコアはそこそこ高かったように思う。

たとえば私は普段、斜め掛けバックしか持たないと決めている。ハンドバックやトートは、どこかに置いてくるから。大げさじゃなく、本当に手を放した瞬間忘れてくる。
病院のトイレ、レジの横、スーパーのカートにかけたままなど、今まで何度忘れてきたことか。なので、今は貴重品は基本ショルダーバッグ一択。忘れない、ということが「できない」のだと、気づいたからの対処法である。

また、日々のスケジュールもTODOも、すべてスマホで管理し、アラームが鳴るようになっている。なぜなら、予定を覚えられないし覚えてもすぐ忘れるから。
以前は、それを手帳に書いていた時もあったけど、手帳を忘れるので意味がない。しかもその場で予定を書き込まないと忘れるので、すぐに取り出せるスマホに一括管理。スマホだけを、肌身離さず持つようにしている。
なのでここ最近は、予定を「わすれてた!」が年に2回くらいになった。これは私としては快挙。

逆に、集中しすぎることもある。
昔から、何か一つのことにハマると、一日中その事を考えてしまう。誰かのファンになると、何から何までその人一色になる。人の声が聞こえなくなる。でも、無意識に返事は出来るのでタチが悪い。

思い描いた事は叶えようと目標達成まで一心不乱に取り組む。周りの声が聞こえない。
それが、時には志望校に入りたい!だったりする事もあるので、脇目を振らず勉強出来たのは人生において良かったけど、そりゃ良いことばかりでは無い。

基本は注意散漫なので、忘れ物や二度手間が多いし、家事や仕事は一つやってる間に他のことを思いつき、そちらに行ってしまってる間に結局進まないことが多々ある。なので人より時間がかかる。

ゴミの日は、週に1度は出し忘れる。色々アプリも試してみたが、これはなかなか改善しない。

いつも何かミスをする。
それがわかっているから、何度も何度もすべて確認するのに、だ。
確認してない部分でミスをする。もう、どうしたらいいのか、自分でもわからなかった。

私の頭の中には、常に川が流れている。
桃太郎の桃が流れてくる感じの川だ。

脳内の川の上を、色々な考えやアイディアが、常に上流から下流へ流れている。

家族の事、仕事、趣味、noteのネタ、旅の思い出、晩御飯の献立、明日の予定、昨日見たTVの話題、推しの顔、生徒の悩み。

それに一貫性がないし、なんせ川なもんで、すべて止まらず流れていく。その上、新しいアイデアという桃が、私の意思と関係なくどんどん脳内に投入される。

良い事を思いついても、それを捕まえられず、「あっ」と思った時にはもう流されて、その良いアイデアも5秒後には思い出せない。私の脳内は、ずっとそんな感じだ。結構疲れる。

思い出だしたその時にそれをしないと、せめて書き留めないと、忘れる。
あ!今日ゴミの日!と思ったら、その場ですぐやらないと忘れる。次の瞬間には、違う事を考えているからだ。
カレーを作ろうと思ったら、カレーのルーを目に見えるところに置いておかないと、忘れる。

問題は、そのことを怒られることだ。
そりゃそうなんだけど。

前の上司や、旦那さんや、もちろん大半のお客様や保護者さんはADHDではない。

ADHDの診断がついている人を黒、その特性が全くない人を白、とすると、主人に関しては真っ白。ちなみに、私はグレーの中でも、限りなく白に近いグレーだと信じてる。どうかそうであってほしい。

真っ白い人たちから見たら、
私はただのだらしがない人だ。

「ちゃんと確認しないからでしょ!」
いや、確認はしたんです。何度も。
「だらしない。」この言葉が一番傷つく。
それが出来ないと、だらしないのはわかってる。でも、注意してても、出来ない。そしていつも自分にガッカリする。

他の人がちゃんと出来ることを、私はいつも、ちゃんと出来ないのだ。やらなきゃいけないのはわかってはいるのに。

母や兄と違い多動の行動特性は少ないので、一見じっとしてられる。黙って座っていられる。
でも、脳内が多動で、なにせ川なもんで、授業に集中したりするのはつらいし、今も参観日や研修会などの時は、基本全然違う事を考えていることが多い。

薄々は気づいていた。それを決定づけてくれたのは、大阪の夜、久しぶりに会った大学の友人"ちゃんちゃん"だ。

ホテルのロビーで3時間話し込んだ中で、彼女は「あのな、話してて思うけど、多分カナADHDやで。」と言われた。

はっきり言われた。
他人に言われたことはなかった。でも自分では、もしかしたらそうかも、とは思っていた。ただ、私の口からとっさに出てきた言葉は、
「いやいや、私は違うよ。」だった。

3時間話して、ちゃんちゃんは「かなの話、聞けば聞くほどADHDやわ。」と何度も言われた。これが素人ではなく、ちゃんと専門的な知識を学び、誰よりも経験を積んだ友人の言葉なので、ちょっと認めざるを得ない。
もしかして、ほんとにそうなのかも、と思うようになった。

彼女から言われて、本気で否定してた私だが、関西旅行から帰ってきて、色々自分の人生を振り返ってみた。 

発達障害の特性があるという人たちの話を、改めて読んでみる。調べてみる。聞いてみる。

その人たちの言葉に、はっきり言って、
共感の嵐だった。

逆に、私は自分の人生しか知らないから、
え?みんなはそんな事もちゃんと出来てるの?
え?出来てないのは私だけなの?とも思った。みんなも同じ苦労をしてると信じてた。
そして、本当に自分はグレーな人なのでは?と仮定して考えてみた。

そしたら、途端に、なんだかすべてのピースがしっくり収まる感じがした。あー、だからなのか、と。

何度も言うが、薄々気づいていはいた。認めたくはなかったけれど。でも、一回認めてみたら、心がめちゃくちゃ楽になった。

だって、もしそうだったら、今まで「なんで自分は努力しても出来ないんだろう?」と思っていたことが、「私のせいじゃなかった」と思えたから。

私の努力が足りないんじゃない。
私がダメなんじゃない。
生まれ持った特性なのだ。
そう思ったら、ちょっと、泣けてきた。

でも、人に(特に家族や生徒さんに)迷惑をかけるのは嫌なので、その特性を補う努力はし続ける。
40年の歳月をかけて、様々な「できない」事を割り出し、いろんなことはある程度克服してきたので、仕事でも昔に比べてミスはかなり減った。

それは「人を責めずに仕組みを変える」というEmi氏の教えが本当に大きい。

人間に欠陥があっても、(いや、人には皆必ずどこかしら欠陥があるんだから)、それを責めるのではなく、仕組みで補うのだ。

仕事や家事の色々な事を仕組化することで、かなり多くのミスを避けれるようになった。

私が常々「Emiさんが私の人生を変えた」と言うのは、その事が大きい。

「人を責めずに仕組みを変える」
私はあの言葉に何度救われたことか。

時にはスマホやアプリやテクノロジーの力を借りて、自分の「できない」を補う。でも、認めてからというもの、とにかく気持ちが楽になった。

今までは、旦那さんや他の人に怒られるたび、だって!と反論しながらも、「ちゃんと出来ない自分」をどこか責めていたけど、今は、自分を責める気持ちが、ちょっと少なくなった。ちょっとね。もちろん出来るように努力はし続けるけど。

何が言いたいかというと。

私がADHDやADHかどうか、兄や母がADHDなのかどうか、診断を受けたわけではないので、正直真相はわからない。

ただ、専門知識を学んだ私からみて、兄や母はやっぱり特性が強いとは思う。自分の事は、まさか違うと信じていたが、客観的に見たら、まぁ、やはりそうなのかも、とも思う。兄たち程ではないが。多分。多分ね。

それでもそんな兄はいま、社会的にもそれなりに成功していて、いろんな趣味も楽しみ、かなり楽しそうな人生を送っている。

母は陶芸家として好きなことを長年仕事にして、好きなように作品をつくり、好きな場所に行き、好きなものに触れ、家族のために走り回っては、充実した人生を送っている。

私も、正直、私の人生最高に楽しい。
生まれ変わっても全然また自分が良い。

要は、本人のとらえ方と、その特性や苦手を克服する正しい対処法、そして周りの理解があれば、人生幸せにやっていけるのでは、という話だ。

そして何よりも私は、何か「できない」壁にぶち当たっている生徒の気持ちがわかる。

宿題を忘れる、勉強が苦手、黙って座っているように見えて実は集中出来ない…。
色々あるけど、私も昔そうだったから、気持ちがわかる。それはきっと先生になる上で必要なことだったのだ。

最後に気になることが一つ。

発達の特性は、遺伝しやすい。

うちの娘たちは大丈夫だろうか。
まだわからない。それっぽいところもあるし、まだ人として未熟なだけなのかも、とも思う。でも、結論どっちでもいい。

双子を生んだ母だからこそ思う。
以前も書いたが、人は生まれながらに様々な特性を持って生まれる。

同じ日に産んだ双子でさえ、こんなに性格が違うのだから、これは私の育て方のせいではない。そう思うと、いろいろ楽になった。

同じように、将来娘たちが、自分は人よりも不得意なことが多いと気づいても、それを跳ね飛ばす程の自己肯定感と周りのサポートがあれば、人生やっていける気がする。

どんな自分も愛せるように
なってくれたらいいな。


いまはそれだけを伝えていきたい。


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