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【短いおはなし】2月20日は「旅券の日」

身分証明書の提示を求められたとき、彼女は一切のためらいもなく、財布を鞄にしまい、代わりに朱色の『日本国旅券』を取り出した。店員さんは今まで何百回も「身分証明書の提示をお願いします。はい、確認しました。お返しします」のやり取りをしてきたはずだが、その無駄に豪奢で気品あふれる『日本国旅券』に一瞬言葉を失った。

「すみません、少々お待ちください。上に確認して参ります」そう言って店員さんは店の奥へと入って行った。

「あの店は平屋だった。上とはどこ?」無事に会員証をゲットし、その会員証には秘密組織からの暗号文がどこかに印字されていて、それを必死になって探すように、彼女は会員証を裏返したり上下逆さまにしながら見ていた。

「今日会ったばかりなのに、そんなに見たら彼だって照れるんじゃない? あと、上は2階というわけじゃなくて、上司って意味だと思うよ」

「会員証は男子か。上司に相談は大切、コマツナだからね」男子だと知って、当初より雑に会員証を財布にねじ込む彼女。男子には厳しい一面があります。

多分彼女が言いたいのは、ホウレンソウだ。会社に入れば必ず叩き込まれる会社、いや社会の常識。報告、連絡、相談。
僕は報告、連絡、相談どれでもなく、以前から聞きたかった質問をした。

「あのさ、なんでいつもパスポート出すの?」

「『日本国旅券』ですけどね」そう言いながらあの朱色が本日二度目の登場。うーん、見るのは一日一回で十分な気がする。

「あ、ごめん『日本国旅券』ね。他に身分証明書ないの?」

「他?これが最強なのに? 見ろ、ここにでっかく日本って書いてある。私はたまに分からなくなる。自分が何者か何人なのか。でもこれを見ればすぐ分かる。私は日本人だと。私は日本国民でいていいんだと。逆に聞きたいどうしてみんな持ち歩かないの? 自分が何者か分からなくならないのかしら…不思議」

「それに他はいらない。車のらないし、国民にせーふが調子乗ってつけた番号のやつもいらない。だいたい私は人間だ。番号で呼ぶな」

彼女の小さな手には少し大きいような、ちょうどいいようなサイズの『日本国旅券』は、この先も幾度となく登場することだろう。ちなみにこの少しあとに、テレビでやっていた水戸黄門の印籠に憧れて、印籠みたいに『日本国旅券』を出すというのが、彼女のブームになった。

2月20日は「旅券の日」




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