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052 理想はすべて

「理想即現実」なら生きていれば、大方の人間は理想を現実化していると言える。
だからまず認識しなければならないことがある。
だれでも「理想を達成している」という現実である。
言い換えれば、だれでも「理想を達成する能力がある」ということである。

このように理屈にせずとも厳しい現実を生きている。
だから普通の人間なら当たり前に得ている感覚かもしれない。
さて、「理想を達成している」というは現代の日本に限ったことだろうか。

例えば、収入前提でない暮らしの未開の地の人間で考える。
面倒でも楽しくても、狩猟したり、採取したり、栽培したりして働いている。
これは、食べるためであり、生活するためであり、命の維持するためである。
途中お金をはさまないが、ほとんど同じ構造である。

王様であっても王の立場を維持するためのなにか仕事している。
どんな時代のどの地域のどんな人間でも共通であり、普遍であるといえる。
だから、人間はいつでもどこでも理想を達成しているのである。

この関係を少し気取って哲学風にいえば、「人間とは理想である」となる。
もっと積極的な言い方をすれば「人間は理想の中で生きている」になる。
そしてもっと過激にいえば「人間は理想の中でしか生きられない」となる。

こうして哲学的キャッチコピーは刺激的な表現になりエスカレートしていくのである。
なにはともあれ、だれでももっとも大事な理想を現実化しているのである。
だから、だれもが充実し、幸福な状態なはずである。

この理想の実現は人間だけのことか。
他の動物であっても、植物であっても、微生物であっても同じはないか。
同じように考えれば、これらの生物も理想を現実化していると見えるのである。

これには万物に共通する普遍性がある。
そうなれば、「すべては理想を現実化している」となる。
これもより端的にいえば、「すべては理想」となる。

ここまでくると、なんだかのおかしいではないか、と疑わりたくなる。
やはり理想と現実が同じの筈はないのではないか。
こんな理屈ただの思いつきではないか。

その見方が出るのも当然である。
理想はもともと英語のアイデアル・イデアの翻訳語である。
そのごく近くに日本語にもなった思いつきの意を持つアイデアがある。
理想をすこし広い意味で捉えようとすれば思いつきの意が入ってくるのである。

この英語のアイデアル・イデアやアイデアの語源はラテン語で見る意である。
これらは色々見た結果の思いつきである。
思いつきのことばを思いつきで説明しただけである。
どんな思いがついているか、ほんとにまる見えである。

いやしかし、すべては理想ではない。
それは、時々刻々すべては変化しているからである。
理想の状態なら変化はしないはずである。
それにすべてが理想の世界なら、そもそも理想なんて言葉はない。

すべてが主、理想が従の関係ではない。
でもすべてと理想には何らかの関係性がある。
ここまでの駄文はその証明である。
では、どういった関係なのか。

行き詰ったら「コツは後ろ」で考える。
そこで主従を逆にしてみる。
「理想はすべて」だと。
換言すれば「理想はすべてを対象にする」と。
言い分けが成り立たない理想にぴったりの表現になる。

また、「すべては現実」である。
しかし「現実がすべて」ではない。
現実には言い分けがあるからである。
その言い分けをよく解ればいい訳すなわち理想が出てくるのである。

ここで「理想はすべて」と「すべては現実」を合わせてみる。
文としては少し変だが「理想は、すべてが、現実」となる。
理想と現実のかなり近いが、わずかばかり隙間(即)がある。
そこにすべてがあり、そこに方向があるのである。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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